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演劇の争いがたい吸引力 劇場通いが見せてくれた世界とは

1回観に行くと、10,000円以上。

趣味として、演劇観賞はお金がかかる。ましてや遠方の公演は尚更だ。交通費に宿泊費、グッズ購入、家族へのお土産。しがない会社員の懐にとって、大きな負担だ。だがほかの出費を抑えながら、安くはない料金をあっさり支払って、わたしはライブエンターテイメントを堪能しに行く。

きっかけは確かにあるのだが、今となってはどうでも良い。劇場を訪れる回数が飛躍的に増えたコロナ禍以降、たくさんの素晴らしい役者さんと出会えた幸せがこころを満たしてくれている。

なぜ、劇場でなくてはならないのか?
なぜ、ライブでなくてはならないのか?

いや。テレビドラマだって映画だって観るのである。少なくとも年間30回程度は映画館に行くし、テレビドラマだってワンクールに2、3本は観る。

だけど、やめられないし止められない。「劇場で異世界にどっぷり浸かってくる」ことを。

テレビドラマにも映画にもそれぞれの魅力があるけれど、劇場で体感できるのは、板の上の世界に迷い込んでしまったかのような奇妙な感覚だ。自分の周りの空気が一気に舞台上に引き寄せられる。目の前で繰り広げられる世界が、心臓を直接つかんできてワシワシ揺さぶるような気がする。

そんな体験ができるのは、劇場だけだ。わたしにとって代わるものなどない極上の場所なのである。

ちょっと前まで知らない世界にいたひとたちが、役として目の前で生きている。一挙手一投足、まばたきの瞬間すらも役を纏ったその姿に、圧倒されずにはいられない。カメラでアップになることはない。武器となるのは主に声と身体能力。潔いほどのシンプルさは役者自身の吸引力を浮き彫りにする。

目を閉じると、今年のGWに日本青年館ホールで出会ったチャーリイ・ゴードンが浮かんでくる。無邪気な笑顔は知能の高まりとともになりをひそめ、まるで少年のようだった声は、落ち着いた大人の男性に変わっていく。かしこくなっても誰とも仲良くなれなかったチャーリイの胸の内が飛び込んできて、苦しい。知能が失われ、アルジャーノンと同じ運命をたどると悟った時の、恐怖と諦めと、受容。ぎりぎりまで忘れたくなかった、アリスへの思い。圧巻だった。

あまりに魅力的なときは、同じ演目を何度も観に行ってしまう。1回1回お芝居が違うのもまた楽しい。

ライブでならなければならない最大の理由は、空気を感じられるからだ。俳優さんと同じ異世界に存在して、同じ空気を吸う。ヒトの聴覚と視覚を侮ってはいけない。研ぎ澄ますとテレビドラマや映画よりずっとずっと鮮明に感じられる役のこころに、触れることができる。

しかも、「空気」は不思議なことに毎回違う。同じ演目を観に行っているのに、違うのだ。なぜだろうと考えた。ふと脳内に降りてきた答えは、役者さんたちも、観客の影響を受けるのだということ。役者ではないからわからないが、そう外してはいまい。普通の人だって、その場の空気で、言うことが変わるのだから。

なんだか、役者さんと秘密を共有できたような妙な連帯感というか、一体感がある。板の上の人たちと、ほんのひととき共に生きられる場所。それが劇場なのだ。

五感を研ぎ澄ませて受け取る役者さんの芝居は、ライブだとテレビドラマや映画よりずっとずっと強い力を放つ。肉体が同じ空間にあるということは、これほどまでにお芝居の解像度を増してくれるのかと、毎回驚かされる。

そしてわたしはまた財布の紐をゆるめて、劇場に向かうのだ。素晴らしい役者さんがいる限り、代わることのない極上の場所であり続けるところへ。


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