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顔に刻みこまれたもの

若い頃、自分の顔が嫌いだった。

テレビに出てくる女優さんやモデルさんはよく言う。「原宿を歩いてたらスカウトされた」と。そんな容姿を持ち合わせていたら、さぞ素敵なことがたくさんあるのだろう。あっちでもこっちでも、見た目でチヤホヤされるに違いない。そんなふうに生まれ付いたら人生勝ち組じゃないか。真剣にそう考えていた時期があった。

容姿の良さだけで良い思いをし続けられるほど、世の中甘くはないことが次第に分かってきたのは、何がきっかけだったか。

はっきり覚えてはいないが、たぶん仕事だろう。
いまも、若くてカワイイ女の子が職場に入ってくると、男性の同僚が色めき立つ。しかしそんな空気は3か月と続かない。仕事ができるかできないかがすべてだ。カワイくても仕事が出来なければ、すぐに空気は悪くなる。

若き日のわたしが思っていたほど、見てくれの良しあしは人と人との関係を保つのに役立たない。男性からは、対等に扱われるためのハードルがかえって上がってしまうし、女性からは、場合によっては反感を買う。見た目はきっかけづくりに役立つ程度なのだと分かってからは、自分自身にも他人にも誠実であるようにと、心がけている。

そうやって必死に子どもたちの学校のPTAをこなし、仕事をこなし、友だちづきあいをこなしていたある日、LINEで送られてきた一枚の写真。友人との会食が楽しくて、思わず顔がほころんでいる自分が写っていた。

あれ?けっこう、いい顔してるじゃん。
素直にそう思えた。40年以上生きてきて、はじめての経験だった。

痩せてもいないし、お化粧も上手くないし、着ているのは普通の黒いシャツ。どこにでもいる普通のオバサンである。だけど、悪くない。

もしかしたら、若いときよりもいまの自分の方がだんぜん良いかもしれない。誰かが見た目を褒めてくれるわけでもなければ、チヤホヤされるわけでもないけれど、そんなに自分の顔を嫌わなくても大丈夫なんじゃない?と鏡の中の自分に話しかけてみる。

年を重ねてはじめて知る感覚との出会いは、あと何度やってくるだろうか。


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