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母とアイロン台

私が大学に合格した時、母からのお祝いがアイロン台だった。

大学に通うために借りたアパートは、お風呂無し、共同トイレ、四畳半の畳に小さな流しが付いていた。それで充分だった。
同級の女の子の中には、親御さんが心配して、家賃10万位の所に住んでいる子も何人かいたけれど。

当時の一ヶ月の家賃と変わらない1万5000円程もした立派なアイロン台だけが、その小さなアパートの部屋で不釣り合いに目立っていた。

しっかりとした脚の付いた折りたたみ式で、シャツ等の襟に綺麗にアイロン掛けが出来るよう、先の方が、小さな首から肩のラインの様な形になっていた。

大学生の私は、そのアイロン台でTシャツにも一枚一枚、必ずアイロンを掛け、ブラウスやハンカチもきっちりとアイロン掛けしていた。

そういえば高校の頃、勉強が忙しくアイロンを制服に掛ける時間がない時は、ジャケットから見えるブラウスの襟と袖口にだけ、朝アイロンをかければ、他の人には気づかれずパリッとする事もちゃっかり覚えた。

そもそも何故、大学合格のお祝いがアイロン台なのかと言うと、母は私がアイロン掛けが好きだと勝手に思っていたのだ。

両親揃って教師。
3つ上の姉と私の4人家族。
父は私が10歳の時に病気で亡くなった。
元々、母は教師という仕事が好きで家事より仕事が好きな人だった。父が健在の頃はよく父が家事をしていた。
小1の時、みんなを笑わせようと冗談っぽく「家はお父さんがお茶碗洗ったりしてよそと反対だね」と言ったら、母にめちゃくちゃキレられて、うわーっと「お父さんは好きでやってるのよ!」等と色々文句を浴びせられた。
母が仕事が忙しく家事を完璧になどは到底無理なのも子供心に何となく理解していたのだけれど。

父が亡くなり、ますます仕事を頑張る母は、帰ると疲れてよく畳の上にそのまま寝ていた。
姉は母の代わりによく家事をこなしていた。
3つ上の姉は、家ではほとんど勉強しないのに、それでも中学、高校と常に学年一番の成績だった。
なので3年遅れで、姉と同じ中学、高校と進学すると、決まって学校の先生たちに期待された。
「あの〇〇さんの妹さん、成績が楽しみだ。
ぜひうちのクラスにほしい」

そして入学後、がっかりされる。
私は姉に比べて、成績は学年で中の上くらいだったのだ。

頑張ってやっとトップクラスの下くらい。
中学2年の担任が母にこう言った事があった。
「〇〇さんはお姉さんに比べて頭も性格も悪いですね」と。
性格も悪いって‥これは、社会の時間に退屈でノートに漫画を描いていたら叱られて、反省しなかった私がほっぺたを叩かれた事件だ。
これには母もカチンと来たようで
「でも、〇〇はアイロン掛けが上手なんです!」
帰ってきた母がその話をするのを聞いて
「お母さん、それちょっと反論になってない」と心のなかで思ったものだ。
この頃から母は私がアイロン掛けが好きだと勘違いしていたようだ。
小学校、中学校、高校と友達はいつもアイロンのきちんと掛けてある服やハンカチを身に着けていた。
私の母はアイロン掛け等してくれた事はない。

でもお洒落に目覚める年頃もあり、アイロンのきちんと掛かった服が着たかった。

それなら、自分で掛けるしかない。
なので、せっせと自分で洗濯しアイロンを掛けた。
母は勝手に、この子はアイロン掛けが好きだと勘違いした。

「自分で洗濯して偉いね」と褒めて貰えるかと内心ワクワクしながら、母の帰りを待つと、
「え?自分の制服しか洗わなかったの?!なんて冷たい子なんだろ。お母さんの物や他の洗濯物は洗わないで!」と叱られた。

姉が大学生になり家を出て、私も高校になると疲れて寝ている母を夜中に起し、お風呂を沸かし、お風呂に促し、母の布団を敷いて寝かせて、それから深夜、受験勉強していた。

正直、早く家を出たかった。
けれど母を一人にするのが胸が痛んだ。
が、思い切って出てみると一人暮らしは快適で楽しかった。

母に貰ったアイロン台でブラウスやスカート、Tシャツにアイロンを丁寧にかけると、何年も着ている服もパリッと新品みたいになるのが嬉しかった。
アイロンを掛けた服たちをきちんと畳んで箪笥の引き出しにしまう時のワクワクする感じ。

母はアイロン掛けはしないけれど、お洒落が好きでセンスのある人だった。
髪はベリーショートにカットして、仕立てたカッコいい服を着こなしていた。
務める小学校の隣の中学生で、ちょっとやんちゃな生徒からも「〇〇先生〜おしゃれ〜」って声掛けられるんだよと母が話していた。

そんな母がアイロン台の他に、入学式用の新しい服を買ってくれた。
田舎だったけれど、割とお洒落に目覚めている小さな街で、裏通りに当時人気のブランドから仕入れたセレクトSHOPが何件かあった。

母がお洒落だとは言え、当時の流行りのブランドを知っていた訳では無い。
けれど、母が名前も知らずに選んでくれたのは、MOGAの真っ白のプリンセスラインのジャケット。MELROSE(メルローズ)の朱赤のニットのツーピース。
緑の細いラインが襟と袖口と胸ポケットの縁に付いたニットのツーピースだった。

大学に通った4年間、ジャケット、ポロニット、大きなポケットの付いた前ボタンのスカートは、それぞれに単品でもコーディネートが楽しめた。

お気に入りは、朱色のメルローズのスカートに、ただの白いTシャツを合わせて、白のコンバースを履くというものだった。
耳元には朱色と緑の、ロベルタのRと入ったボタン式イヤリング。
スカートの大きなポケットと、ふわっとしたデザインがとてもお洒落で可愛くて、シンプルにコーディネートしただけで素敵に見えた。

今になって思えば、株式会社ビギのニット部門から独立したメルローズのニットのツーピースは流石で、色といいデザインといい最高だった。
もちろんMOGAのジャケットのシルエットも。

今でもその服たちは捨てられず、押入れの奥の、下の方の衣装ケースに眠っている。

その後、大学で就職の為に、教員免許や学芸員、社会福祉主事の免許などとったけれど、私はアパレルに就職した。

小学6年生の時の担任だった先生に「えー?大学にまで入って売り子になるの?」と言われたけれど、
そんなのどうでも良かった。

好きな服に囲まれていたい。
洋服が大好き。
それだけだった。 

そして、仕事に着る服もアイロン台でいつもパリッと蘇らせていた。

入社2年目、副店長になった時、レジ締めが遅いと当時の店長に叱られ、納得のいかない理由で次の日謝らなければならなかった。
家に帰って、私は悪くないと大泣きし、その時の彼に「明日、一番カッコいい服で会社に行きなさい。そして謝りなさい」と言われ、深夜スーツにアイロンを掛けた。

次の日、そのスーツで出勤し、店長に頭を下げた。

そのアイロン台を、結婚の時も持ってきた。
大学1年生の時からほぼ40年近く使い続け、何年か前に折りたたみ式の脚が壊れてしまった。
それでもごまかし使ってはいたけれど、上のスポンジが破れてきて、ついに代わりのアイロン台を買った。

そして去年、泣く泣く母のアイロン台を処分した。
しかし、代わりに買った安いアイロン台がどうにも使いづらい。

量販店の安い物だったので、まず小さい。折りたたみ式の脚が低すぎる。思うようにアイロン掛けが上手くいかない。
やたらと時間ばかりかかる。
全然、前のように綺麗に満足するアイロン掛けができないのだ。

ハンガーにかけてある服に、スチームをかけるだけでシワが取れるアイロンを改めて買ったけれど、やはりアイロン台でしっかり掛けるのと仕上がりが違う。

今、リハビリ中である事も手伝って、何だかお洒落が楽しくない。
アイロンを上手く掛けられない服はパリッとしていない。
あの頃のワクワクする感じが訪れない。

4年前に母は亡くなった。
母と暮らした年数より遥かに、母のアイロン台と共に生きてきた年数が長くなった。

母のアイロン台は私の宝物だったことに今頃気付いた。


#創作大賞2024 #エッセイ部門


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