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人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そして その時代 (2)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第一部


目次

第一章:ロンコレ村
(1812―1823/0歳から10歳)
第二章:ブセット町/その1
(1823―1829/10歳から16歳)
アントニオ・バレッツィ氏。交響楽団協会。靴屋のパニャッタ。ブセット町。セレッティ牧師下の普通学校とプロヴェージ下の音楽院。優等生をめぐっての二教師の争い。最初の作曲。ソラーニャ村のオルガン師にはなれず。
翻訳後記:ブセット町観光

(順次掲載予定)
第三章:ブセット町/その2
第四章:ミラノ市
第五章:ブセット町の音楽長職を巡っての抗争
第六章:音楽長
第七章:ミランで戴冠式とオベルト初演
第八章:当時のオペラのスタイルと第2作「一日だけの国王」
第九章:本人が語った第3作「ナブッコ」初演までの様子

第2章:ブセット町 その1


アントニオ・バレッツィ氏

カルロ・ヴェルディが最初に相談した相手は、アントニオ・バレッツィという人で、カルロがいつもロンコレ村で売り歩く商品を仕入れている食料品とワインの店をやっているビジネスマンだった。バレッツィ氏は今風にいえば町のデパートを経営し、自分で醸造した特別ワインを売っていた。商売はうまくいっていた。世の中が乱れた時でも、食料品、酒類の需要は高かった。ので、彼は金持ちで、特に当時北イタリア地方に育ってきていた中流クラスを代表していた。

1823年、バレッツィはまだ36才で、カルロ・ヴェルディより2才若かったが、彼はすでにブセット町の中心的人物だった。それは町の交響楽団協会の団長だからで、その練習とかコンサートは彼の広い邸宅で行われていた。この交響楽団協会は現在の典型的地方交響楽団に比べ、劣る点もあるが、勝る点もあった。彼らは町のすべての公式行事で、地方自治体音楽隊として演奏していたので、町は彼らの音楽監督に給料を支払っていた。この協会は町内のプラザや公会堂で、地方廻りのオペラ団が公演する時、オーケストラを受け持った。さらに教会での演奏にミュージシャンを提供したし、野外、室内、多くはバレッツィ家のホールで、コンサートを開いた。楽団員は、音楽監督以外は皆アマチュアで、時にはうまく弾けないこともあったかも知れないが、皆楽しみで熱心にやっていた。ほとんどの楽団員はいくつもの楽器を弾き、または吹き、演奏するプログラムによって、必要なのはバンド員か、オーケストラ員かが決まり、各自の担当楽器が決まった。ブセット市民の家庭では、必ずと言っていいほど、息子、または兄弟、いとこがこの交響楽団の団員だった。交響楽団は町の社交の中心で、誇りの的だった。特に、隣接する町、村から交響楽団にお呼びがかかった時には、町の雰囲気は大いに盛り上がり、バレッツィ氏はそのリーダーであり、支援者だった。

カルロ・ヴェルディが数年前、息子のためにスピネットを買った時も、バレッツィ氏に相談しただろうと思われる。その後、町に仕入れに出かけたとき、多分、彼はバレッツィに息子の演奏を聴いてもらっただろう。この二人の父親の間の当時の会話などは、一切記録に残ってないが、カルロ・ヴェルディは息子の才能を認識したが、どうしたら良いか、困惑していた。一方、バレッツィもこの少年には特別の目をかけ、親切に相談に乗ってやった。もちろんバレッツィが何年何月の何日に、この驚異的天才少年との遭遇を誰かに語った記録もない。だが、彼はカルロ・ヴェルディが相談に来るのを待っていたようで、躊躇することなく、彼は父親に息子をブセットの町の学校に入れることを勧める。彼はヴェルディの下宿先(靴屋の2階)を交渉し、彼の行動を監督することを約束する。少年ヴェルディが異常なほどに音楽に興味を示すことから、当然ながら、彼はバレッツィ家に出入りし、彼がヴェルディの仮の親だと、町の人々が認めるだろうと考えていた。少年の性格など、よくわかっていなかっただろうが、彼はこの才能を持った子供を預かる責任はどうとか、スポンサーする難しさなどを考えなかったようだ。両者は音楽への情熱がいっぱいで、他のことまで考えなかったということらしい。できる限りのことをやろうと考えた。そういう成り行きで1823年の秋、学校が始まる11月に、ヴェルディとスピネットはブセット町に手押し車で引っ越した。

それから7年間半、ヴェルディは靴屋のパニャッタの家に住んだ。契約では食事つきの下宿代は一日30セントだった。彼の父親が半分払い、残りはヴェルディがロンコレ村のオルガン師として稼いだお金で支払われた。ヴェルディが9年間務めたこの一見つまらなそうな仕事は、彼のキャリア上、最も重要なことの一つだった。これがなかったら、恐らく、彼がブセット町に住むようになることは、起こらなかっただろう。毎日曜日と特別の祝日に、ヴェルディはロンコレ村まで3マイルの道のりを歩いて通った。逸話によると、靴が減るのを恐れて、いつも裸足だったそうだ。冬のある日、彼がまだ10才か11才の時、足を滑らして、排水と家畜を追い込む目的の水路に落っこちてしまった。この時、水路には水が張り、土手の崖の坂は急でヌルヌルしていた。ヴェルディは自力で這い上がることができず、もし偶然通りかかった農婦が彼の叫び声に気がついて、助けなければ、この辺りの農地でよくある水死事故で終わったかも知れない。

靴屋のパニャッタ

パニャッタという靴屋の正体はよくわかっていないが、非常に貧乏で、読み書きが全くできなかった。何年もの間、ヴェルディと同じ家に住み、食卓を共有したにも関わらず、この少年と何の関係も持たず仕舞いだったということは、不朽の名声を得る唯一の機会を失ったということと言える。毎日ヴェルディの部屋から聞こえる音楽について、彼は何と思ったのだろう?ヴェルディが間違ったところに気が付いたか?または毎晩、パブに行って、友人に「毎日、毎晩、あのスピネットめ!」とこぼしたのだろうか?当時を知っているブセットの人々が語り継いだことは、パニャッタ家のシチューは実が少なく、これを補うため、ヴェルディは隣人から煎った栗を買い、そこでポレンタの切り身を焼かせてもらっていたということだけ。

パニャッタとの関係というより、無関係だったということは、ヴェルディの音楽と学業の内容の濃さを示している。だが、それは悲しい現実でもあった。ヴェルディにとって、パニャッタは全く存在しないのと同じだった。別に毛嫌いとか嘲笑とか、残酷さとか、親切心とかがあったわけではない。ヴェルディはその頃まだ貧乏で、ロンコレ村まで裸足で歩いていたかも知れないが、10才の時にはすでに、文化的に、知能的に彼の家族の社会的レベルの人間を超えてしまい、それから永久に別離してしまったのだ。彼は両親には愛情深く、忠信な息子のままでい続けたが、それから10年間に、彼は別の人間の息子に成長していった。彼は以前の農夫や靴屋などとの知人関係から一切離れていき、決裂したまま戻ることはなかった。彼の人生はそれから大いに上向きに展開したが、彼らの生活は昔のままだったから。

ブセット町


これはヴェルディが住んでいた頃のブセットの町。現在でもほとんど変わらないが、全ての道路は城壁の外側に延長され、住宅が立っている。ヴェルディの頃、城壁の外はほとんど畑だけだった。例外としては北の城門から200メートル行ったところに教会と、3、4軒の建物があった。南側の城門から400メートルくらい行ったところにフランシスカン修道院と付随した大きな教会があった。その横に小さな公園があり、パラヴィチーノ男爵の夏別荘があった。メインストリートの北と南の城門は1853年に反対されたにもかかわらず、取り壊された。後に東と西の城壁も所々壊される。

ブセット町は当時やく2千人の人口を抱え、地域の政治、経済の中心地だった。いくつかの教会があり、その一つは時々司教が他の町から来て、ミサを司ることから、地元では「カテドラル(大寺院)」と呼ばれていた。カテドラルには、ロンコレ村より大きいオルガンがあり、四人の独唱者に合唱団、弦楽四重奏団が所属していた。町にはジムナジウムと呼ばれる普通学校と音楽院があり、さらにユダヤ人のコミュニティもあって、彼らは自分たちの学校を持っていた。さらに、ヴェルディにとって重要な、公立図書館があった。町の外側には、地元貴族パラヴィチーノ男爵の敷地があり、お堀に囲まれた小さな庭園の中に彼の夏別荘が立っていた。町内の建物は3階、4階のものもあり、通常内庭を囲んで立っていた。バレッツィの家もそういう造りだった。アーケイドの奥の一階が店になっていた。すぐ上の階に大きな部屋があり、そこで交響楽団のリハーサルやコンサートが行われ、その奥と上が家族の生活の場になっていた。すべてがロンコレ村の何よりもずっと大きいスケールで、それは住む人間の活動の可能性の大きさを示していた。その差は度合いの違い程度ではなく、全く別物という違いのレベルだった。ブセット町に移り住み、バレッツィ氏の加護の中に入り、さらに数年後にはミラノに移ったことは、ヴェルディの人生の中で、決定的な行動だったと言える。

セレッティ牧師下の普通学校とプロヴェージ下の音楽院

ヴェルディは以前に父親に伴って、ブセットには何回か来ていたので、町の通りや建物の様子には馴染みがあっただろう。間違いなく彼はバレッツィ氏の店を知っていたので、その周りの様子もだいたいわかっていたようだ。何れにせよ、彼にはいつでも弾けるスピネットがあり、少なくとも週に一回はロンコレ村に戻って両親に会うことができた。それでも親元を離れて一人で下宿生活するには、10才という歳は若い。彼は泣いただろうか?ホームシックになっただろうか?それについて彼は一切語らなかったので、誰も知らない。だが、かなりの可能性で、彼は泣かなかっただろうと思われる。彼の学校の教師はドン・ピエトロ・セレッティという牧師で、カテドラルの参事会員だった人。最初からヴェルディの成績は良かった。彼は読み書きの基礎が中心の下級学校から始めた。のちにラテン語、イタリア文学と歴史を勉強する。そこでも彼の成績は、牧師が将来教会でのキャリア候補に推薦する程度に良かった。その分野では当時は伝統的に音楽も組み入れられていた。

ヴェルディが学校にいないときは、彼は下宿でスピネットで練習しているか、図書館で本を読んでいるか、音楽がなっているところ、つまり、カテドラル、バレッツィの家、または音楽院をうろついた。多分彼は昔ロンコレ村に旅廻りバヨリン弾きが来ていた時のように、黙って座って、聞き入り、呼ばれれば、頼まれたこと、会場の椅子や楽譜立てなどを並べるのを手伝ったりしただろう。人口2千人の町というのは、大変小さな町だから、公共の場所で活躍しているミュージシャンの数は百人を超えなかっただろう。彼らは次第にヴェルディを知るようになり、彼らの日常生活や活動に、ヴェルディを招いたりしたこともあっただろう。

ヴェルディにとって、一番大事な音楽家は、フェルディナンド・プロヴェージだった。当時53才、交響楽団協会の音楽監督で、音楽院の院長、またカテドラルのオルガン師だった。ブセット町は1813年に彼を現職に任命した。それ以後、バレッツィ氏の強い後押しもあり、彼は教会の合唱団、交響楽団、それに音楽院を再編成して、市民がより一層、音楽をエンジョイできるようにした。ブセット町で聞かれた音楽の多様性とレベルの高さは、このプロヴェージ氏の貢献によるものだった。バレッツィはかなり早い時期に、ヴェルディをプロヴェージに紹介したようだ。彼は、初めは遠くから種々のアドバイスをし、そのあとは直接ヴェルディの音楽教育に携わった。彼のアドバイスで、バレッツィはヴェルディにフルート、クラリネット、ホーン、それにサーペント(ヘビ)と呼ばれた一時代前の管楽器を吹くことを教えた。プロヴェージ自身は和音と対位法、それにピアノを教えた。ピアノについては、ヴェルディは自分で、「弾き方習得本」で勉強して、それまでに弾けるようにはなっていた。彼はバレッツィ家のピアノで練習した。彼が種々の楽器を上手に吹けるようになると、交響楽団のリハーサル時に、欠員の楽器を担当し、また楽器ごとの楽譜作成などもした。彼はそれで、学校の勉強に遅れが生じることになる。

優等生をめぐっての2教師の争い

これは問題だった。彼の教師で牧師のセレッティは、ヴェルディにだけでなく、学校関係者にも、その他聞いてくれる人は誰にでも、この子は音楽に時間を費やしすぎるとこぼした。セレッティが意図した通り、それはプロヴェージの耳に入り、この二人は激しい口論と辛辣な詩の応酬を、友人、敵の間で続けた。この争いは一部政治的だった。プロヴェージは共和党員で、しかもフランス革命の思想に染まった過激派だった。それに対して、セレッティはイタリアにおけるローマ法王の政治的権力維持のためには、オーストリア帝国の介入を歓迎する反動派だった。その争いの間に挟まった主人公ヴェルディは、まだ12才か13才だった。彼は双方に気を配って、宿題、仕事を公平にこなして、事を収めようとしたが、当然な結果として、頭上に雷を落とすことに発展する。教師にとって、自分の最優秀の生徒が、自分の授業に全力を尽くさないのを見ることは耐え難い苦痛である。個人的な責務履行拒否に繋がる。

ある日、プロヴェージはヴェルディが出した宿題をちゃんとやっていないことに、怒りと失望を感じて、本人に問いただした。彼の弁解理由としては、普通学校と音楽院の授業に行き、ロンコレ村でオルガンを弾き、それ以外に細かい音楽に関する仕事、頼まれごとが、多少でも生活費の足しにしようとしているから、どんどん増えてしまったので、1日の時間が足りないと告白した。普通学校ではすでに、彼が音楽院の授業をやめて、ラテン語などももっとちゃんと勉強しなければ、放校にする話まで持ち上がっていた。それを聞いて、プロヴェージはヴェルディに「息子よ、よく聞くのだ。君はこれからも、いままで通り音楽の勉強を続ければ、将来君は一流のマエストロになる。学業面において、自分はその専門でないが、同じように一流にならないとは言わないが、それは能力の問題ではなく、音楽に対する君の並外れた愛情から見て、私はそう思うのだ」と言い、さらに彼は偉大な音楽家になるには、いろいろな知識が必要だ。だからヴェルディは普通学校の勉強も続けるべきで、たとえ放校の憂き目にあっても、独学で続けるようにと言い加えた。

このプロヴェージの助言によって、ヴェルディは、自分は音楽家になるのであって、牧師ではないという考えをよりはっきりと意識したが、普通学校のセレッティ派の面々に、その思いは届かなかった。ここで必要だったことは、ちょっとしたきっかけ、それもプロヴェージやバレッツィとは無関係に発生したきっかけだった。幸運にもその機会は教会の祝日に起こった。この祝日特別ミサにソンチニというオルガン師が雇われていたが、彼は欠席になった。そこでセレッティはヴェルディが代行したらどうかと言った。セレッティは冗談半分にそう言ったようだが、その時のヴェルディの楽譜なしでの演奏は、即興演奏も入り、素晴らしく、この牧師は敗北を認め、少年に音楽を中心に勉強するように言った。それ以後、普通学校からの苦情はなくなり、ヴェルディは予定通りに無事卒業する。彼とセレッティは、その後も良い友人関係を維持した。彼は常識ある人間で、しかも自らヴァイオリンも弾いた。そして、ヴェルディがミラノで勉強することになったとき、この田舎出の無名の少年は、ミラノのセレッティの甥の家に泊めてもらうことになる。

それから数年後には、ヴェルディはプロヴェージの、名目だけでなく実質的なアシスタントとなった。プロヴェージが病気の時は、彼に代わってレッスンを行った。彼はオルガン演奏を手伝い、交響楽団を手伝い、バレッツィ家の子供たちに音楽を教え、毎日曜日と祝日には、ロンコレ村でのオルガン師を続けるため、通った。

最初の作曲

15歳になるまでにすでに彼は、経験は多少足りないが、そのほかの面では完成した音楽家となっていた。プロヴェージはヴェルディの方が、ピアノが上手いと認めていた。ヴェルディは15才の頃から、作曲を始めた。多分はじめはピアノの小曲や歌曲や単一楽器のソロ曲などだっただろう。最初のオーケストラ用作品には、ロッシーニの「セビリアの理髪師」の新しい序曲があげられる。旅廻りオペラ団がブセット公演に来た時、いつものようにブセット交響楽団がオーケストラ演奏をしたのだが、それまでに彼はいつも交響楽団のリハーサルをして、指揮をやっていたので、その団員たちと知り合いになり、彼らの方が学校のクラスメートより、ロンコレ村の農夫たちよりもずっと良い友人になっていた。そこで彼はオペラの序曲を作曲して、リハーサルして、本番に弾いたところ、大成功だったのだ。

既存のオペラに序曲を付け加えることは、1828年には現在思うほど僭越的なことではなかった。当時、有名な曲は全く他の人が編曲できない確立したレパートリーという考え方がまだなかった。上演される曲は常に新曲で、古くなった曲はある楽団のある公演に、ある名演奏者のために合わせて編曲されるのはごく普通だった。ロッシーニ自身、「セビリアの理髪師」の序曲に、その前不成功に終わった二つのオペラのために作曲したものを使っていた。なので、ヴェルディのアクションは特別に大胆でもなければ、僭越的でもなく、現役のミュージシャンなら、誰でもやっただろうと受け取れる行為だった。ただ、ここで特異な点は、彼がその時まだ15才だったことだった。

同年、彼はI deliri di Saul (サウルの渇望)というカンタータを作曲した。これについてバレッツィが熱狂的な讃辞を残している。「この曲はフル・オーケストラとバリトンのために作曲され、15才という若年で作曲した初期の作品で、ヴェルディの生き生きとした想像力、哲学的視野、そして楽器の配分などに健全な判断力を示している」と。この曲はブセット町や近隣の町村でも演奏され、評判になり、ヴェルディは田舎町の有名人になる。この曲は出版されていない。ヴェルディは初期の時代の作品の公表を阻んだ。その頃の作品は自分の私物だからという理由で。

ソラーニャ村のオルガン師になれず

この頃までにヴェルディはブセット町が提供できる全てを習得してしまっていた。彼は16才で、まだ自活しているとは言えなかった。彼はそれまでにいろいろな人々にお世話になったと思い、できれば面倒をみる責任を彼らから解放してあげたいと考えた。近くの村、ソラーニャでオルガン師がリタイアすると聞いた時、ヴェルディはその職に応募した。そこからの給料とロンコレ村からの給料を合わせれば、なんとか生活ができるだろうと考えたのだ。彼の応募に添えた手紙が残っている。

1829年10月24日 ロンコレ村

著名な関係者御一同へ
ロンコレ村のジョセッペ・ヴェルディは、御サラーニャ村の教区教会のオルガン師のポジションが、フロンドーニ氏の希望退職により、欠員になることを知り、その後継者として、考慮していただくことを、この書をもって、お願いしたいと考えます。もちろん、そのためには身元、本人の能力について、公私の調査が必要なこと、そしてその結果によることは承知しています。

従って、本人をこのポジションの応募者の一人に入れていただくことを、著名関係者一同にお願いいたします。

ジョセッペ・ヴェルディ

しかし、ヴェルディの友人たちの支援や、プロヴェージからの推薦状があったにも関わらず、ヴェルディはこの職を得られなかった。長い目で見れば、彼にとってよかったが。
ロンコレ村とソラーニャ村の往復では、ブセット町よりも刺激のないことだっただろう。多分、誰もはっきりとは言わなかったが、彼はミラノか、パルマのような音楽中心地に行くときだった。昔カルロ・ヴェルディが息子をロンコレ村のオルガン師プラス教員か、牧師にしようと考えたように、今度はバレッツィとプロヴェージが、ヴェルディをブセット町で、プロヴェージのように、町の音楽活動に関与する役割をさせられないか考えていた。この少年はすでに、プロヴェージのアシスタント役をこなし、老音楽家はますます病気がちで、引退を望んでいた。ヴェルディ自身が何を希望していたか、わからないが、素晴らしいイタリアン・オペラを作曲することを、夢見ていなかったとは考えにくい。その頃イタリアではオペラが音楽的表現の一番重要な形式だった。だから、どんなアーティストでも、特に若い人はいつか自分が世を圧倒する最高傑作を作曲し、名声と富を勝ち得ることを夢見ていた。しかし、それを実現に持っていくことは、そう簡単ではなかった。ブセット町に住んで、お金が足りない生活を強いられ、ミラノに行くことなど、考えられなかっただろう。ブセットで、その日その日の仕事を見つけていく生活がせいぜいだった。学校の講師、リハーサル、新曲の作曲、生徒にピアノのレッスン、そんな仕事のことだ。ソラーニャ村の職がダメになり、ブセットでの生活が継続することになる。

[ 翻訳後記 ]

ブセット町観光

本文中のブセット町の地図の10番は、1868年に建てられたヴェルディ劇場としか、書かれていないが、ここが10世紀以来、この中世の町の要というべき統治者の要塞兼城だった。建物の内庭の壁には、16世紀に神聖ローマ帝国のカール5世(1500-1558, 神聖ローマ帝国の皇帝には1519から1556)がここで当時のローマ法王と会見したという記念額がかかっていた。さらに建物の後ろにはお堀と吊り上げ橋(この建物の後ろの城壁を越えて引かれた短い破線2本)の跡がある。
本文中の平面地図を立体的に描いたのが下の絵。何年制作か記載がないが、カール5世の少し後くらいだろうか?城門と城壁の一部が取り払われた以外、現在もほとんど変わらない。その昔から由緒ある立派な町だったようだ。

ヴェルディが住んでいた頃はナポレオンに解放された後、再びウィーン体制でパルマ公国の君主制下におかれていたが、緩やかな治世だった。ウィキで調べると現在は人口5千くらいのコミューンの一部となっている。イタリア(少なくとも北部)の小さな町や市は、独立した自治体だった時期も多いようだ。古代ローマは帝国になる前に、まず共和制の国を造ったことが、イタリア民族の長い歴史の根底に流れている。中世以降の王国とか公国とは、ほとんど、外国勢力が造ったものだった。

地図の10番の建物をバレッツィ家(ブセットの地図の2番)の2階のミュージック・ルームのバルコニーから撮った写真。時計塔の左は現在市庁舎、右側がヴェルディ劇場。バレッツィ宅は町の広場を挟んで、ちょっとずれているが対面の位置にある。そして町の東側にあるカテドラルへの通りから、彼の家は2軒目。彼が町の有力者だったことが、彼の所有不動産でわかる。

バレッツィ家と市庁舎の間は広いピアッツァになっていて、ここで、ヴェルディの生誕百年祭(1913年)、2百年祭(2013年)などをはじめ、色々な催し物が繰り広げられた。オーケストラ座席が150の小さなヴェルディ劇場では、とても彼の名前に相応しいイベントはできなかったらしく、この広場で催されたとガイドは説明。ブセットがヴェルディゆかりの地と世界に広めたのは、パルマ出身のトスカニーニだった。

真ん中の広場からバレッツィ宅を見る。左手の赤茶色の3階建てがバレッツィ家。手前が公共広場
現在ミュージアムになっているバレッツィ宅の入り口
カサ・バレッツィの2階にあったバレッツィ氏のカラー・ポートレート。
カテドラルの横にあるバレッツィ家の教会。ヴェルディとマルゲリータはここで結婚式をあげた。隣のカテドラルに比べればずっと小さいが、本文にあるように町で一番古い教会で1110年に建てられた。
ブセットの町はメイン通りの両側にパーティコと呼ばれる屋根付き歩道がある。町全体、中世的で、薄茶色の3階、4階の建物がほとんど。皆古い建物だから、維持にはお金がかかる。イタリア政府には維持するお金がないそう。この町の全てがヴェルディが絡んでいると思われるほど、町はヴェルディで成り立っているようだ。1982年のTV映画撮影の時は、町の人のほとんどがエキストラとして参加したとガイドは懐かしそうに話した。
バレッツィ宅から南に1ブロックほど行ったところに、ヴェルディが後に奨学金をもらった「慈善基金協会」がある。著者はモンテ・ディ・ピエタというイタリア語名を使っていて、私は前後の関係から「慈善基金協会」という名前にした。本文に説明があるように、コレラで子供を亡くした金持ちからの寄付を基金に、奨学金などが払われた。イタリア語の辞書でピエタ(同情の意)からこの名前を引くと、「抵当銀行」とか「公営質屋」という訳語がある。私は初め理解に苦しんだが、次第に状況が見えてきた。つまり、お金がない人たちが物を質に入れて、お金を借りる仕組みで、現在も類似のサービスを提供している。この後ろが公立図書館になっていて、ヴェルディはそこをよく利用して、シェイクピアとかマンゾーニとかの本を読んだようだ。ここの蔵書は1767年に解散させられたイエズス会のものだったとある。(第3章)
その2軒先に元イエズス会の教会と学校だった建物がある。バレッツィの家からも近い西側にあり、道路より一段高い土台の上に、どっしりした建物が横幅も広く、さらに後ろは城壁まで1ブロック続いている。イエズス会については、日本史にも登場するフランシスコ・ザビエルなどの努力で、新大陸やアジアでの布教に成功したことで知られているが、旧大陸でも反宗教改革運動で活躍した。しかし国の政策にも口出ししてフランス王や法王庁から目をつけられて、潰されたという歴史を持つということをここで知った。フランスでルイ15世がイエズス会を解散させたのは1764年、当時パルマ公国はフランスのブルボン家が統治していたことで、3年後ブセットでも強制解散になったと思われる。
そして最後に南の城門近くの通りを西に行くとヴェルディの下宿先だったパニャッタの店の跡があり、碑が壁に埋め込まれていた。しかし、ガイドはこの場所については、はっきりとした証拠がないという。

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