人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そして その時代(9)
著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子
出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年
第一部
本人が語った「ナブッコ」初演までの様子
ヴェルディは一生涯、自分と周りの人々のプライバシーを厳しく守ってきた。彼が68才の時、ベルリーニの生涯に関する記事を送ってきた友人に、「なぜ、音楽家の手紙を掘り出して、とやかく書くのか?音楽家の手紙は常に急いで、簡潔に、気遣いなしに書かれ、さらに何が重要かも示していない手紙が多い。それは音楽家は作家として名を残そうなど、考えてもいないからだ。不評の作品に対して、劇場でヤジを飛ばされるだけではすまされないのか?すまされないらしい。手紙も対象になるようだ。有名とは何という厄介なものか?人気のため、音楽家は大きな犠牲を払わされるようだ。生存中も、死後も、平安の時は許されないらしい。」と書いている。
その後問い合わせてきたドイツの編集者に:
「私は絶対に、メモアールなど書かない!」
「何十年にわたって、音楽界は私の音楽を寛容に扱ってくれてきた。それ以上に私の散文作品まで押し付けたくはない。」と言っている。
しかし、何事にも例外があるように、幸運にもヴェルディにも例外が起こった。それまで40年以上、ヴェルディの作品の著作権を任されてきたリカルディ社の3代目ジュリオ・リカルディは、ヴェルディと良い友人関係を築き、1879年にヴェルディに彼のミラノ初期時代のことを語ってもらうことに成功する。ジュリオはそれをまとめて短い自叙伝として出版しようとした。ヴェルディは語り、ジュリオはそれをその場で書き留めたか、終わってから、すぐに書いた。何れにしても、ヴェルディの口調をよく知っていたジュリオは、語った内容をほとんど、逐次に書き留めることができた。
出来上がったスケッチはそのシンプルな文脈の流れで有名になったが、それと共に、不正確なことでも有名になった。例えば、ヴェルディは息子の死を娘の死の前にしたりして、のちの精神分析医の興味をそそった。さらに彼は妻の死と2人の子供の死は3ヶ月の間に起こったとした。もちろん実際には3年間の間に起こったのだが。彼の伝記作家たちはこの点について、理解に苦しんだ。ジュリオ・リカルディは原稿をヴェルディに送って、間違いを修正してもらっただろうが、修正が反映された証拠が見つからないことから、されなかったのではないかと一般に解釈されている。またはディネリー・フッセイは「ヴェルディの性格に大きな跡を残したこの悲劇について、彼の記憶の中で正確に刻まれたとは限らない。これらの事件が2ヶ月の間に起こったか、3年の間に起こったかは、重要ではないが、ヴェルディの記憶が間違っていたことは不可解ではある。」と書いている。しかし、67才の老人が、ある日突然、40年前の事件を思い出そうとした時、故意に内容を入れ替えたとは思えない。人生での出来事が起こった順序で記録されているのは、税金のためか、伝記作家のためだけだろう。彼は生涯感情豊かに人生を送ってきた。このことは特にアーティストの場合、感情を注ぎ込んで売るための作品を書くので、うまくいかない年もあり、うまくいった年には2倍の収穫を取り込んだだろう。あの3年間を、あとから振り返れば、「オベルト」の成功があったにしても、ヴェルディにとっては一生一度の大悲劇だっただろう。オペラの1作品が合格点だったことと、家族全員をなくしたことをどう比較できるか?この悲劇は彼の感情に積もり積もって、彼の人生観を変えただろう。
下に掲載するのは、そのスケッチの終わりの3分の2で、「一日だけの王様」を作曲した頃から始まっている。(ヴェルディ自身が語った不正確なこともそのまま)
このオペラは聖書にあるナブッコドナサー(註釈 by MH:日本ではネブカドネツァルと呼ばれる)の話である。歌詞に入れる関係で、その名前は短く「ナブッコ」となった。第1幕で、バビロンの皇帝ナブッコはエルサレムのユダヤ人を攻撃して、勝利し、彼らのテンプルを破壊して、ユダヤ民を奴隷としてバビロンに連れ去る。そこで、彼はいき過ぎた自惚れから、自ら、神と宣言するが、(バチが当たって)稲妻に当たって、頭がおかしくなる。彼が養女にした奴隷の子アビゲールが、本当の娘のフェニーナを押しのけて、ナブッコの権力を奪おうとする。フェニーナはユダヤ教に改宗したため、バビロニアン守護神バールの神父の信用を失う。アビゲールがフェニーナとユダヤ民全員を処刑しようとする時、ナブッコは正気を取り戻し、ユダヤの神に誓って、ユダヤ教を彼の国の宗教とし、悪きは制される。
ソレラのセリフは、ちょっとナイーブで、大げさだが、当時のオペラ音楽のスタイルには合っていた。主人公たちにはそれぞれ祈りのシーンがあり、発狂するシーンもあり、戦闘的なコーラスも、嘆きのコーラスも、ユダヤ民の処刑場へ死の行進もある。オペラのストリーの内容が観客にとって、馴染み深いものだったことが、成功につながったことは間違いないが、ヴェルディの素早い筋の展開が、また歌い手の魅力を引き出した。
新シーズンのプログラムに「ナブッコ」が入っていないことで、ヴェルディから怒りの手紙を受け取った後、ヴェルディがアビゲール役にストレッポーニを希望していたので、メレッリは、もし彼女に見せて、彼女が気に入れば、今シーズンに上演してもいいと言う。そこで、ヴェルディはすぐに彼女とアポをとり、馬車を持っている友人パセッティと一緒に彼女の家に行ったという話は有名で、ヴェルディは、これは本当の話だと書いている。ヴェルディがピアノで曲を弾き歌い、ストレッポーニは彼の肩越しに楽譜を見て、そこ、ここで一緒に歌った。終わると、彼女はとても気に入ったと言い、すぐにヴェルディが希望しているバリトン歌手のロンコーニの所に行って、聞かせようと提案する。ヴェルディは馬車が待っていると告げると、笑いながら、ストレッポーニはコートを着て、一緒に出かけた。ロンコーニの家でもヴェルディはピアノに座り、曲を弾くと、ロンコーニも聞き入ったり、ハミングで歌ったりし、ストレッポーニとパセッティは説明を挟んだり、賞賛の声をあげたりした。ロンコーニもその音楽に興奮気味になり、すぐに3人はどうやったらメレッリを説得できるかの作戦を練った。この2大シンガーがミラノにいるこのカーニバル・シーズンに上演するべきで、彼らも熱心にそれを希望した。
当時、「ナブッコ」のような出来の良いオペラは、いずれは上演されただろうが、歌い手の支持の価値を強く評価するのもわかる。ヴェルディはのちに認めているが、この場合、メレッリの判断と処置はよかった。ヴェルディ自身も舞台装置や衣装が新しいものでなくても、妥協したのは賢かった。ヴェルディはその後、オペラ作曲家として成功してくると、オペラの演出面でも厳しい要求を押し通すアーティストとなる。
ストレッポーニとロンコーニの支持を得たことで、このオペラはスカラ座の一番大事なシーズンに、最高のキャストで上演されることになった。オペラがここで成功すれば、間違いなく、他の劇場や興行師から上演の申し込みが殺到する。モーツァルトは初めプラハで成功したが、それから、ウィーンで成功するまでに、時間がかかったが、ヴェルディの場合、それはなかった。
メレッリは初演を1842年の3月9日に決めるが、それまでにこの素晴らしいオペラの噂は、劇場の外に漏れた。現在、「ナブッコ」の音楽に新しさを見出すには、歴史家の耳が必要だが、当時この音楽は革命的とされた。リハーサルが練習室を出て、ステージに移動する頃には、舞台裏での仕事は全くストップする現象が起こる。ペインター、機械工、ろうそく係り、バレリーナたち、友達の友達も皆、劇場内に入り込み、口をぽっかり開けて、聞き入った。そして、ミラノ方言で、「一体この新しい音楽は何?」と驚嘆の声をあげた。初演の夜を待たずに、このオペラは成功していた。その晩ヴェルディがオーケストラの中の作曲家の席に立つと、チェロ奏者の友人、メヒギは「今晩、何と交換してでも、君の席につきたいもんだ」と言った。
実際には、初演時の観客の反応は、普通程度の熱狂ぶりだった。第1幕の後、観客があまりに騒いだので、ヴェルディは「一日だけの王様」の時のことを想い出し、彼らの意図するところを疑った。そして第3幕で、普通、警察はアンコールを許さないのだが、観客は「行け、私の想い」をもう一度と粘り、再び演奏されることになった。警察としては、アンコールはデモにつながり、場内に散らばっているオーストリア関係者と貴族の安否を気遣ったのだったが。もちろん、観客の要望が続けば、指揮者は、ちょっと肩をすくめて、アンコールをしてあげ、あとで、観客の熱なる希望を無視する方が危険だと言い訳した。
この時の場合、警察が心配したのは、もっともだった。観客が熱気を帯びてくると、彼らがこれを止めようとしても、できなかった。このオペラの中で、バビロンに幽閉されたヘブライ民が、ユーフラテス河畔で故郷を想い出してコーラスを唄う。ロッシーニが言ったように、厳格には、これはコーラスではなく、大勢の人が歌ったアリアである。つまり、最後の方でいくつかの音声パートに分かれるまで、全員の声は同じメロディを歌っている。しかし、それがまた人気を高めたことに繋がった。メロディは一つの声から、次の声に移ることなく、そして、普通の人の音域を超えない。つまり、誰でも歌えるのだ。幽閉されたヘブライ民の気持ちは、イタリア人は自分たちも同じ気持ちと理解できた。ソレラの歌詞だけでも、十分心に訴えたが、人々が歌った時、自由を求める民衆の気持ちは印象的に表現された。
「ああ、美しい祖国よ、今は失われてしまった」は非常に単純な歌詞で、ソレラが企んだ通り、間違いなく観客の目は涙で濡れた。「ナブッコ」がイタリア人の祖国愛の寓話として成功したことは、ソレラ、ヴェルディにとって、意外ではなかった。二人とも外国に占拠された国で、厳しい検閲下の中で、抑圧された人々の耳は、寓話に異常に敏感に反応することを知っていた。それは警察が何もできない民衆が発するコミュニケーションだった。1833年にトスカーナの大伯爵、レオポルド2世が、オーストリア帝国皇帝の命令で、フィレンツェの人気高い新聞、アントロギア紙を閉鎖して、イタリア半島最後の革新的思想と批判の言論界を黙らせることに成功した。それ以来、イタリア人の意見表示は、地下活動か秘密結社で論議するかになり、一般大衆の場合、寓話を使って行われた。
しかし、「ナブッコ」の成功はイタリア人の祖国愛を盛り上げたからだけではない。音楽的にみて、そこにはかなり多くの美しさ、特に緊張感の中の美しさが多くあり、それは全く新しいものだった。ロッシーニは彼の喜劇オペラで、笑いときらめきを生む音楽を書いた。ベルリーニは長い、重々しいメロディを書いた。ドニゼッティは軽妙さと優雅さで観客を魅了した。ヴェルディの音楽には力強さがあり、その中に美しさが存在した。ゆっくり歌われるアリアでも、早いものと同じように感情の盛り上がりがあり、批評家も観客も、盛り上がりはスピードからくるのではなく、曲の美しさから生まれると初めて認識した。しかし彼らはそれを「荒々しさ」とかいう言葉で表現したので、教養のある人びとはその言葉は「粗野」だとか「音楽的でない」という意味になるので、非難した。
この荒っぽい緊張感は「オベルト」にも「一日だけの王様」にも現れている。「ナブッコ」の方が、これらの以前のオペラより、質が高く、感情はより強く表現されている。それでもこの3つは同じ作曲家のものだと分かる。「ナブッコ」の方が「オベルト」より優れているのは、奮起させる要素があることだ。自由を求めて嘆く聖書の中のお話に、ヴェルディは惹かれたし、多分さらに、その数年前に彼が経験した悲痛な思いは、オペラの主人公たちの深い気持ちに再現されたようだ。こうした一般的解釈の他に、良い点のいくつかが指摘できる。アビゲールとナブッコの性格に、珍しいが、非常にヴェルディらしい特徴が現れている。意識してかどうか疑問だが、彼はソレラが書いたイズマエルとフェニーナの愛のデュエットよりも、この特徴ある二人の主人公の方に焦点を当てている。恋人同士の愛はオペラでは伝統的手法の一つだが、アビゲールの策略するプリンセスはそうではない。同様に、ソプラノが発狂するシーンはよくあるが、ナブッコのようなバリトンの発狂はなかった。両方のケースにおいて、彼はそれまでに前任者たちが書いたものからヒントを得ることができず、彼は全く新しいスタイルで、観客を説得させる音楽を作曲しなければならなかった。彼はさらに3人目の主人公、預言者ザカリアスについては、ロッシーニのオペラの中の、モーゼに似た音楽をつけることで成功している。ヴェルディもロッシーニも預言者にバスの歌手を使い、それぞれ祈祷曲を歌わせ、有名になっている。多分ヴェルディがソレラに預言者のシーンを入れさせたとき、すでにそれにつける音楽を考えていたのだろう。彼はそのシーンで、ロッシーニと比較されることを念頭に置き、彼の音楽は異種のものだが、劣るものではないように気を配ったと思われる。素晴らしいコーラス曲を別としても、この3人の強力な主人公だけでも、「オベルト」より強力な筋になっている。
何れにせよ、「ナブッコ」の部分部分にはスタイルというか、雰囲気的にも統一感があり、これは彼がそれ以前にはできなかったことで、それ以後も当分の間、現れていない。
「ナブッコ」はヴェルディの数多のオペラの中で、偉大なオペラの部類に入らないが、今日に至るまで、生き残り、しばしば特別演出で上演されている。1930年代にはドイツでリバイバルになった。1933年にはフィレンツェで5月祭シーズンの幕開けに上演された。1946年にはミラノ市で第2次大戦後の復興の象徴として、修理されたスカラ座が再オープンされた時に上演された。ニューヨークのメトロポリタン・オペラの1960~1961年シーズンの幕開けに上演された。ミラノの初演のあとの10年間には、ニューヨークからハバナまで世界中で上演され、1850年代には南アメリカの都市でも上演されている。
メレッリが1842年の春に初演した時、「ナブッコ」はカーニバル・シーズンの4番目で最後の題目で、シーズン終了まで8回の公演しかできなかった。しかし、この抜け目ない興行師はむこれ以上のタイミングは考えられないと言えるほど、いいタイミングで初演したと言える結果になった。というのは、ミラノのソサエティと音楽界のリーダーたちは、この8回の公演の少なくとも1回は、観劇するチャンスがあったので、夏の間中、彼らは見損なった人々を前に、このオペラのすばらしさを興奮気味に語った。人々の好奇心は高まり、広報上、最大効果をあげ、メレッリが秋のシーズンに入れようとした時には、彼はもっと良い日程と、歌い手を「ナブッコ」につけることができた。
秋のシーズンには、ストレッポーニもロンコーニも出演できなかった。バリトンにとっては、残念なことというだけだったが、ストレッポーニにとっては事情が違った。春のシーズンで、彼女のアビゲールは声の調子が良くなく、印象に残る歌いぶりではなかった。この事実は彼女に歌ってもらいたがったヴェルディにとって、打撃だった。しかし、ミラノで初登場した後の何年かは、ストレッポーニは声を使いすぎ、また2番目の私生児の出産以来、健康を損ねていたこともあった。彼女の私生児は2人ともテノールのナポレオン・モリアーニが父親だと言われていた。
ストレッポーニの「ナブッコ」の出演は、輝かしいものではなかったかもしれないが、ヴェルディは彼女が支持してくれたことに感謝し、また人間として、彼女を好きになり、大事な友人と考えた。「ナブッコ」の公演3日目のあと、メレッリは新作オペラ作曲の契約書をヴェルディに持ってきた。内容は全て書き込まれていたが、報酬額は入っていなかった。驚いたヴェルディに対して、メレッリは、「常に作曲者が設定するもの」と回答する。ヴェルディは契約書をポケットに入れ、考えることにするが、しばらくして、彼はストレッポーニに会いにいく。彼は、こういうことには全く未経験者ということに気がついたのだ。ブセット時代からまだ、たった3つオペラを書いただけだし、スカラ座とメレッリしか知らない。それに比べ、ストレッポーニはすでに27箇所のオペラ・ハウスで歌い、その中にはイタリアとオーストリアの主要オペラ・ハウスも含まれていた。彼が事情を話すと、ストレッポーニは真剣に相談に乗ってくれた。彼女はちょっと考えた後、もちろんこの幸運のチャンスを逃すべきではないけれど、だからといって、過大評価はするべきでないと言う。彼女は1831年にベルリーニが「ノルマ」で受け取った報酬額と同額がいいのではと言う。1841年にこの額はよくはあるが、莫大ではなかった。そして、ヴェルディは彼女の助言に従った。
秋にスカラ座で「ナブッコ」の再公演が始まると、春以上に成功を収める。8月13日から12月4日までの間に57回上演された。この回数は当時の1シーズンの上演数の記録を破った。そして毎回、「行け、私の想いよ」のコーラスはアンコールになった。3月の初演を観にきたバレッツィは、12月の最終公演を観にきている。
この上演数は1842年のミラノ市の人口がまた15万に達していなかったことを考えると、見事だ。スカラ座は何回もの改装後、現在の立ち見席を入れない座席数は2300だが、1842年の座席数は、天井桟敷を入れて2600だった。と言うことは、この「ナブッコ」はその初年に、町の人口より2万多くのチケットを売ったことになる。他の町からの観客もいただろうが、それほど多くはないはず。まだ、鉄道は通っていなかったし、馬車での旅は心地よくなかった。さらに、伝統的に、観客ではなく、オペラ団が旅する時代だった。
「ナブッコ」の成功は、オペラの筋書きのように、ヴェルディの生活を直ちにそして、ドラマティックに変えた。ネクタイから、帽子から、料理のソースにまで、ヴェルディの名前が付けられた。もっと重要なことは、彼にとって生まれて初めて、経済的な独立が保証されたこと。オペラ上演はその後何年も続くはず。メレッリはすでに1843年に、ウィーンでの公演を計画していたし、他の劇場も群がってきた。すでに他の新作オペラの契約依頼が入っていたし、もっと来るだろうし、さらに「オベルト」と「ナブッコ」の新演出を監督する仕事もあった。彼は引き続き、同じアパートに住み、借金の返済を開始した。実に人生29年目にして、興奮状態に至った。ロンコレ村のオルガン師席から、スカラ座の指揮者席へ。彼の両親にとっては、これで将来の心配は無くなったことを意味した。カルロ・ヴェルディには信じられないことで、彼は時々、奇跡と呼んだ。バレッツィは、プロベッージを想い、ラヴィーニャを思い出し、すでに彼の両親よりもヴェルディのことを理解していて、これは奇跡ではないと思っただろうが、何れにしても長い年月の努力が報われた喜びに浸った。ヴェルディにとっては、「一日だけの王様」で負った傷は残り、聖ジオバニーノ教会の墓地の墓も厳しい現実として残った。だが新しい人生が始まった。彼はもちろんやる気十分だった。しかし、彼は「運命の星はいつも情け深いわけではない」ということをすでに学んでいた。
【翻訳後記】「ナブッコ」の舞台から
ヴェルディが「ナブッコ」でブレイクアウトした経緯はこの自叙伝で有名になり、イタリア人なら誰でも知っているエピソード。そして「ヘブライ奴隷のコーラス」は国民から、最も愛された曲となり、彼の葬儀に沿道に並んだ人々はこの歌を歌って、見送ったのです。またバレッツィは臨終の床でヴェルディにこの曲を弾いてくれと哀願します。
「ナブッコ」の話は私たちが高校の世界史で「バビロンの幽閉」として習った史実(587 B.C.)を基にしていて、その話は旧約聖書のエレミヤ書などに入っています。ユダヤ民はこの体験で書かれた経典の重要性に気がつき、聖書の編纂が始まったと言われています(ということは‘本’の始まりでもあった)。ですから西洋の精神文化の原点的な話で、ヴェルディは聖書のこの箇所を昔何回も読んだと言っていますから、彼には渾身打ち込める内容だったのだと思います。
ここでまず「ヘブライ奴隷のコーラス」を聴いてください。
これは、2001年、ヴェルディ没後100年を記念して企画されたメトロポリタン・オペラによる上演で、指揮はジェームス・レヴァインです。このシーンは第3幕の中頃にあります。そしてこの場面がアンコールで繰り返される伝統は現在も続いているところも観ることができます。
私も「ナブッコ」を初めてメトロポリタン・オペラで観たときにこれを経験しました。いくら人気の場面といえども、幕が落とされるのを待たずに繰り返される例を私は他に知りません。それが起こった時、私は、ここはニューヨークもマンハッタンのUpper West Sideでユダヤ人の多い地域だからだと思ったのですが、この本を読んで、もっと深い由来があったことを知りました。今年6月にヴェロナの古代ローマ遺跡のアリーナで観た時も、繰り返されました。これはヴェルディの初演の時のエピソードから、ヴェルディを愛する人々によって受け継がれてきた伝統なのですね。
ある情報源によると、ヴェルディの26作のオペラのうち、近年の上演回数ランキングで、「ナブッコ」は4番目(ラ・トラヴィアータ、リゴレット、アイーダの次)となっています。旧約聖書の話が主題で西洋人には人気があるだけでなく、音楽もいいし、メイン・キャラクターが3人というのは、スター歌手の出番が多いということです。
次に初めに戻って、7分の「シンフォニア」のビデオを入れます。いろいろな指揮者、オーケストラのものがありましたが、私はスカラ座の常任指揮者だったムッティのものを入れます。カラヤンと反対に彼はテンポを速くするので、知られています。ここでも後半、序奏の後はとても急いでいる感じで、さらに終わりに向かって、どんどん早くなり、そして盛り上がってはきています。曲としては、メロディーが多く、どれも力強く、ジョージ・マーティンがいう緊張感もそれぞれの部分にあります。
次にアビゲール役。初演の時、ストレッポーニの声が十分出なかったことでヴェルディには打撃だった、それでも彼は新作オペラ作曲の契約金額について彼女に相談したエピソードも有名です。さらにその時すぐに彼と彼女の仲は演劇界で噂になったことが、あのテレビ・ドラマにありました。スカラ座での初演に、当時人気絶頂のドニゼッティがウィーン行きを延期して、観に来て、そのゴシップを演劇界に広めたことになっています。この話は第10章に出てきます。
ここに入れたビデオは前出のメトロポリタン・オペラのもので、マリア・グレジーナというロシア人ソプラノが歌っています。1996年ヴェロナで初めてこの役を歌い、大当たり、それ以来彼女は世界中で歌ったようです。ここに入れたYouTubeのビデオは第2幕、場所はエルサレムからバビロンに移り、彼女はナブッコの秘密文書を見つけ、自分がナブッコの子ではなく、奴隷の子だったことを知って怒りに燃える場面。その後、昔のことを思い出し、「かって私の心も喜びに」を歌いあげます。このビデオにはアリアの楽譜が下部に出てくるので、ハイB とハイ Cに行くところ、その後、2オクターブ下がるところもよくわかります。彼女はこの数年後にこの役からリタイアしています。1996年ヴェロナで歌った時はもっと素晴らしかったでしょう。
このナブッコがヴェルディのバリトン父親の第一号で、アビゲールとのデュエットがいくつかあります。ここには第3幕、ナブッコは頭がおかしくなって、アビゲールに本当の娘フェニィーナに会わせてくれと懇願する場面です。ナブッコ役はスペイン人のバリトン、フォァン・ポンズです。
さらにここでお聞きいただきたいのは、預言者ザッカリアを歌うバス歌手のサミュエル・ラメイです。彼の声は特徴があって、長い現役時代中には、バス役のあるオペラの人気を広めたと言われるほど、好評だったようです。このザッカリア役は彼の‘十八番’役の一つ。
このシーンは「ヘブライ奴隷のコーラス」の後のシーンで、嘆く民衆を慰めた後、「未来の暗がりの中に」という祖国の勝利とバビロン滅亡の予言を歌っています。ヴェルディが台本作家のソレラを部屋に閉じ込めて書かせた部分です。
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