はる自分史2 赤ちゃん期
11月17日から、Twitterで自分史活用アドバイザーのマーシーさん主催 自分史倶楽部に参加して1か月が経ちました。
私もコツコツ楽しく投稿を続けています。
私は一人っ子なので、よく「弟妹がいたらいいな」と思いながら自分の幼少期のアルバムを眺めていました。写真に写ってる自分はどんな赤ん坊だったんだろう?と思い、両親に尋ねました。
まあ出てくる出てくる。両親が手を焼いた話や失敗談。
どこの家庭にもありそうな平凡な話ですが、#自分史倶楽部で、「はる自分史 赤ちゃん期」に書きました。
その16本のツイートをまとめてみます。
10代の頃に母から「9月の思い出 Try To Remember」をダビングしたカセットテープを渡され「あなたがおなかにいる間、よく聴いていたのよ」と教えてもらいました。
このエピソードは半世紀経った今も、父から何度も聞かされています。
美人な母親ではなく、縄文顔の父親とそっくりに生まれたことに、申し訳なさを感じていたようです。
やはり跡取りにはこだわったようです。跡取りといってもお墓を守るくらいのことなのですが。
次は男の子が生まれてくると決めてかかって、新生児期を過ぎても水色多め。果ては幼児期にも紺色の吊りズボンを穿いていました。
私が子供のころから笑い話として聞かされたエピソードですが、自分が母親になって育児書を読んで、笑いごとじゃなかった!と知りました。
お酒を間違って口にしたら、たとえ少量でも必ず受診と書かれていました。怒られると思って…って、子供か!
祖父母にとっては初孫、親戚中でも久しぶりの赤ちゃんだったので、どこでも大歓待を受けて、私はかなり興奮して大はしゃぎだったようです。その疲れがひどかったのでしょう。
1歳半まで歩かなかったせいで、運動能力の発達がとても遅れました。
よちよち歩きとくらべて、はいはいはとても速かったらしいです。気が付いたら芝生広場の端から端まで這っていたと話していました。
子ども時代「自分でできるんだよー」と見せびらかしたい傾向がありましたが、どうやら赤ちゃんの頃から始まっていたようです。
木製の手押し車、別名「カタカタ車」。かなり甲高くカタカタ音がするので、両親はびっくりして飛び起きたことでしょう。
叔母(当時19歳)が大好きだったので、持ち物が気になっていたようです。畳におすわりしたまま、叔母のバッグを肩にかけた写真が何枚もありました。
父の言葉のまま「ウエスタン」と記載しましたが、カントリーミュージックです。確か苦手だったのはビング・クロスビーだったな、とツイートしたあとに思い出しました。
「やっと聴けると思ったのに、わざわざ起きだして泣くんだもんな」と父からいまだに文句を言われ続けています。
レコードをかけるのはCDよりはるかに手間がかかります。
ジャケットから袋を出して、袋から盤面に触れないように取り出してターンテーブルにのせ、回転数を指定して、盤面のホコリをきれいにとって、針を落として…。
たった1曲のために父にこんな面倒をかけさせて…。私は相当うるさく泣き喚いたのでしょう。
やまねーず→マヨネーズ
ののみやぐら→火の見櫓
ちゅけてね→気を付けてね
母が父に「行ってらっしゃい。気を付けてね」と毎朝声をかけるのを、語尾だけ真似しました。だんだん上達して「ちをちゅけてね」になりました。
「血をつけてね」⁈ …物騒ですね。
娘が生まれてから実家の押し入れを見たら、「うさこちゃん」と「じぶんでひらく絵本」がまだ残っていました。開いてみると、すべてのページに見覚えがありました。本当に毎日たくさん読んでもらっていたんだと思います。
娘と息子に読み聞かせをしていたころ。
「ぐりとぐらのえんそく」で、ぐりとぐらがお弁当の時間までにおなかをすかそうと体操とマラソンをする場面で、必ず2人とも布団から起き上がって「1.2.3.4.」と元気よく体操して、そのあと寝室をぐるぐるとマラソンしました。階下の部屋の住民はびっくりされたことでしょう。
寝かしつけは連日失敗。血筋か…。と思うと文句を言えませんでした。
かなり古い建物だったようです。社宅に入居した理由は「そのあとどんな家に住んでもママから文句が出ないように」だそうです。
家賃はとても安かったので、住宅取得資金を貯めたい同世代の社員さんがたくさん住んでいました。我が家が退居したあと数年後には取り壊されて、あとにはそれなりに立派なマンションが建っていました。
両親から聞いた私の赤ちゃん期の話は、一人っ子の私がのちのち子育てするときの助けとなりました。
自分が母親になるまでほとんど小さな子供と接したことがなかった私も、わが子が訳のわからないところで泣いたりゴネたりしても「まあ私もそうだったらしいから…」と腹をくくることができました。
今、こうして赤ちゃん期の話をまとめてみると、両親は大変さも笑いに変えて私を育ててくれたのだと思います。私自身も、わが子が小さいころは泣きたいくらい大変なこともありましたが、今では笑い話です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?