はる自分史3 幼児期

昨年11月からTwitterで、自分史活用アドバイザーのマーシーさん主催 

自分史倶楽部に参加しています。


はる自分史は昨年12月6日から書き始めた幼児期編が22ツイートで一区切りついたので、noteにまとめました。

1.衝撃の体験⁉

もっと大きくなってから「幽体離脱」という言葉を知りました。その描写が私の夢にそっくりなのを知ってびっくり。私は小さい頃から霊感はまったくないのに、夢と思っていたのは幽体離脱体験だったのでしょうか。

母が事故のあと父の荷物を取りに警察に行くと、警察官から「ご愁傷様です」と言われました。車がぺしゃんこになっていたので、ドライバーが無事なはずがないと思われたようです。おかげで(?)、追突事故を起こしたにもかかわらず、父の免許は減点されずに済みました。


2.住んでいた家

釣瓶式の井戸は絵本にもよく出てくるので子ども心に気になって、石の蓋の下を何度ものぞきこみました。隙間から小石を落とすと、ぽちゃんと水音がするまで少し時間がかかりました。深かったんですね。

割り当てられた社宅に甘柿の木があったのはラッキーでした。でも、私はこのころは柿があまり好きではなかったのです。今思うともったいないことをしました。

3.家族旅行

言い出したら聞かないので、両親もほとほと手を焼いたようです。何度も笑い話として話してくれました。

丸いものはぜったいに割りたくないと思っていました。おせんべいの他にも、丸い棒付きキャンディーが割れたと大泣きした記憶があります。

自分史ツイートに通し番号を付けたり忘れたり。また忘れていたのに気づき、このツイートから番号をつけました。

4.遊び

ぶらんこに乗って遊ぶのではなく、なぜか窓から乗り移る遊びばかり。仲間に入れてほしければ自分もやらなきゃならない状況でした。怖い怖いと思っていると、だいたい失敗しますね。

自分の子育て期は、幼稚園までは外遊びを見守りました。自分が育ったころとはずいぶん変わったと思います。

3歳くらいになると、同い年でも出来る出来ないにずいぶん差が出てきます。社宅はみんな専業主婦なので、話題はわが子自慢になりがちだったようです。私には特に自慢できるネタはなかったし、しょっちゅう熱を出していたので、母は周りの奥さん方から自慢されっぱなしで大変でした。

それまで怪獣や星人はほとんどが喋らなかったのにヒッポリト星人にはセリフがたくさんあり、余計に怖かったです。さらにエースもウルトラ兄弟もブロンズ像になって死んでしまったので大ショック。

私がどうなだめても泣き止まないうえに「エースは?エースは?」と1週間ずっと心配し続けたので、いちばん困ったのは母でした。

仮面ライダーを見た夜には、きまってテレビを見ている夢を見ました。

夢の中で怪人が怖くてテレビを消そうとするのですが、スイッチを切ってもテレビが消えない。そして画面から怪人が出てくるのです。

「うなされてうるさかった」とのちに両親から文句を言われました。

初代リカちゃんには髪に赤いリボンがついていますが、私のリカちゃんにはリボンはありませんでした。遊んでいるうちに取れてしまったのでしょう。

仮面ライダー人形はマスクが外れるようになっていたので、リカちゃん遊びの男の子役として使っていました。

レディリカはリカちゃんとは別のキャラクターです。今ならジェニーちゃんのような位置づけでしょうか。洋服も大人っぽかったので対象年齢はリカちゃんより少し上だったかもしれません。

ひとり遊びできる子どもだったので、テレビを見たり積み木遊びをしたりしながら母のピアノを聴いていました。

「高いところに登っちゃ危ない」は我ながら想像力豊かだと思います。

5.七五三

自分史倶楽部のメンバーに実家が目黒だという方がいて、話すうちに大鳥神社での七五三を思い出してツイートしました。

6.初めてのクラシックコンサート?

若い夫婦には高いチケットだったでしょうに、気の毒なことをしました。

7.母のお供で

毎週のように母の実家に行くためにバスに乗っていました。バス停の名前まで憶えています。

バスに乗ったり道を歩いたり、いろんなところで何度も目にする漢字には興味を持ちました。

8.一人っ子

周りに一人っ子はいませんでした。幼稚園や小学校でも一人っ子はたいてい私1人。3人兄弟という友達が多く、4人兄弟も珍しくありませんでした。子どもが多い時代だったのですね。

自分が親になって育児書を読んだところ「1人っ子を育てる時は、親の役だけではなく時には兄弟の役も演じて」と書いてありました。父の育児方針は正解だったようです。

でも当時の私には嫌なことばかりです。とにかくしつこくて、私が泣くまでいじり続けました。父は頭の回転が速いので私が言い返すと3倍になって返ってきます。おまけに私が言い返しすぎると私だけが母に叱られるのです。

父の「ときどき兄弟の役」は、私が結婚して家を出るまで続きました。

9.4歳~引っ越し

母が新婚当時からずっと使い続けていいた無水鍋は、ふつうにお鍋として使う他、コンロでオーブンのように使うことができます。筑前煮を作ったり、蓋をフライパン代わりにしてホットケーキを焼いたりと大活躍していました。

1971年、東名高速道路の全線開通で一気に近隣の交通量が増えたようです。

2年ほど前に当時の住居の近くを通ったとき、ひどい排気臭にびっくりしました。4歳当時、あのまま住み続けていたら喘息になったかもしれません。

祖父母の家でのお泊りは初めて。叔母に遊んでもらったのが楽しくて、叔母が大学に行くときはがっかりして泣きました。

幼稚園入園に合わせて引っ越したので、ここで幼児期を一区切りにします。

幼児期のエピソードは、今との時代の違いを感じることが多いです。自分が生きてきた時間も歴史の一部なんですね。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



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