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一人旅の丘から。『かつてのJ』終演!

8月24日、池袋ポップアップ劇場season2 vol.7参加作品の『かつてのJ』、上演が終了しました!お越しいただいた皆様、ありがとうございました。そして、配信でもご覧いただいた皆様、ありがとうございました。

最初に、ひとつだけお願いさせてください。
【配信チケット】が、まだまだ絶賛発売中です。僕もまだ、配信の映像を見れていないのですが、配信でもお楽しみいただけたようなお声をいただいておりますので、まだの方はぜひご検討ください。ご購入はこちら👈
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上演後のリアクションをこちら👈にまとめさせていただきました!たくさんの感想ツイート、ありがとうございます!


いかに演劇を販売できるか

さて、本作品は、「いかに演劇を販売できるか」という問いを打ち立てて、そのために自分にできることは何か?を突き詰めた結果、形になっていった作品です。20分という短い枠であることや、制作費が少ないこと、上演する劇場の特性やイベントの特色は、はじめからわかっていたことです。僕にとって、とても難しい課題でした。それでも僕にお声がけくださった観劇三昧さんに何かしらの形で応答したいという思いで、あのような作品になっていきました。

『かつてのJ』は、僕個人的に、とても好きな作品になりました。僕の、いいところも悪いところも惜しみなく曝け出した作品で、大学時代に作っていたようなエネルギッシュで皮肉に満ちた作風を思い出します。稽古場見学という試みも、結果として非常によい影響を受けとることができたと思っており、その点についても、見学者の方々に御礼申し上げます。たくさんのディスカッションにご協力くださり、本当にありがとうございました。

演劇を販売して、競争の枠組みの中で作品を作るということはどういうことなんだろう。考えぬいて、宣伝に力を入れ、フォロワーの方にランダムでDMを送るなどの活動もさせていただきました。突然DMが来て、驚いた方がいましたらすみませんでした。

本作の作品づくりの動機は「販売する」ことなので、企画の目的は「収益の最大化」になります。つまり、少しでも多くの方にご来場いただき、また、配信を購入していただくことが目的です。そして、グッズを売ることです。これは単に、商業主義的な販売行為というだけなのではなく、作品の中身とも連動した「検証」でもあります。ですから、それに付随して起こったさまざまなことを、僕はきちんと評価して考えていかなければと思っています。

さて、極論ですが、演劇を販売するという理論を推し進めると、「チケットが売れさえすればよい」「席が埋まりさえすればよい」という考え方にも結びつきます。それも考え方の一つだとは思います。ですが、それは本当に豊かなことのでしょうか? しかし、僕はこのイベントの特性上、売れさえすればよい・埋まりさえすればよいという強論をある程度借りて販促をしていかなくてはなりませんでした。これには心苦しい点がいくつもありました。

売れば売るほど

このイベントは、出演料という形で、はじめに所定の金額を提示され、キャスティングしていただきます。その金額は、僕一人での出演だったとしてもかなり厳しい額面です。スタッフや複数の出演者がいる団体は、その時点で適正な出演料をもらえないことは明白です。ただ、チケットバックが加算されるルールが設けられており、参加団体はチケットを多く売ることで、収支のバランスを担保することを狙います。そうしていくしかありません。もちろん、それを呑んでの出演なので、それ自体を批判するつもりは全くありません。ですがこれはもっと大きな、社会の問題だと僕は思うのです。

120席という限られた席数のうち、僕は70席の来場チケットを販売することができました。それはありがたい限りで、本当にありがとうございます。実にキャパの半数以上です。あとは算数の問題ですが、3団体に残る席数は決まってきます。つまり、他団体へのチケットバック金額の上限も、バック率を知っている僕には、それも見えてくるというわけです。

僕はチケットを売れば売るほど、他団体へのバックが減っていくことを知りながら、販売することに力を尽くさなければなりませんでした。これは、資本主義的な世界観から考えれば当然のことかもしれません。ですが、『かつてのJ』の作中でも言及しているように、僕たちの一人ひとりが、自己責任的に、競争主義の中で戦いに明け暮れるような生活から、僕は脱したいと考えているし、これが今の社会の生きづらさの大きな原因なのではないかと僕は考えています。僕は、非暴力・反権力の祈りを作品に込めながらも、結局はその足で誰かを踏みつけるしかない状況にありました。

僕は芸能活動をしていた時代があり、その点で、集客というものに関して、他団体と客観的に見比べてアンフェアだと思うのです。確かに、これも僕にとっての財産ですし、積み重ねてきたものや、応援してくださるみなさんの気持ちは真実です。ありがたいことです。とても大事です。でも、僕はもうわからないのです。何がフェアなのか。そしてさらに『かつてのJ』は、【誰もが分かる作品】ではありません。でも、ジャニーズ事務所という世界観を共有し終えている人には、エモーショナルに響く仕掛けをふんだんに取り入れています。こうなるともう、このあと発表される投票結果についても、何をもっての順序なのか、もはやわからない状態になるのではないでしょうか。多く得票した団体はスペシャル公演にキャスティングされ、通常公演よりもよい待遇で上演することができます。正直、もしも僕の得票数が多かった場合、結果をどう受け止めたらよいのか分からなく、できるなら棄権したいくらいの気持ちです(しようかな)。

僕のほうこそ異物だった

演劇を盛り上げる、とは一体なんなのだろう。観劇三昧さんの、この企画の一番の企画意図は演劇を盛り上げることにあると思います。そして、どうしたらより多くの上演の機会を提供し、かつ、より多くのお客様に作品を届けられるか、考え抜いた先での企画だと思います。コストは可能な限り最小限に抑えられ、ただし上演に際する必要な要点はきちんと抑えられており、バランスよく考え抜かれた素晴らしい企画だと思います。でも、僕が感じたのは、やはり人手不足だなという印象でした。あれが実現できたのは、少数「精鋭」の、スタッフ一人ひとりが一人分以上の働きをしていたからこそだったと思います。

とはいえ、やはり、劇場費を払わずに上演でき、制作スタッフや照明音響スタッフまで手配された状態で公演をすることができ、自団体をはじめてみるお客様にも作品を見ていただける機会になる。これはとっても、とっても素晴らしいことです。さらに作品は観劇三昧の配信作品リストになり、そこで見てもらえればさらにロイヤリティにもなります。素晴らしいことです。

僕が思うのは、こんなにも素晴らしい企画を、観劇三昧さんが、会社単位という規模で実践しているというのは、これはすごくもどかしいなということです。チケットバック率も、実際、かなり頑張っていらっしゃると思います。会社に残る利益って、果たしてどれだけあるんだろう、と心配になるくらいです。

そして、そもそも論ですが、20分の作品を観て、「次の本公演の集客に橋渡しする」というのは、いっけん道徳的でやさしい企画のように思いますが、そもそも私たちはなぜ団体ごとにセルフサバイバルをしていかなければならないのでしょう。終演後、その点がひっかかってきてしまいました。

これはつまり、セルフサバイバルに挑みたい団体が集まって行う「試合」ということだったのかもしれません。それはそれでまったく問題ないことだと思います。小劇場演劇のことを僕は今までインディーズ演劇と呼ぶことをためしてきましたが、ここにきて「ベンチャー演劇」と「現代アート演劇」に分けるべきなのかもしれないと思えてきました。僕がやりたいのは現代アート演劇なのかもしれません。

いや・・・だから、これはつまり、僕が単に異物であるというだけのことだったのかもしれない、と思えてきました。

ただ、なんというか、『かつてのJ』を上演して、本当によかったと思うんです。決意を固めることができた。僕はやはり、誰かの犠牲の上で成り立つエンターテインメントをなくすことに使命感を感じているし、それでもどうしたって誰かを犠牲にしてしまうことへの畏れと罪の意識を背負って生きていかなければならないと思っているし、そう思いたいのだと思います。そして、その先で出来上がる作品にしか、もう自分が意味を見出すことはできないのかもしれないとも思います。

僕は何を作るにしても、何か試してみたいことがないとモチベーションが保てない人間です。こんな壮大で実りある検証に、たくさんの方に立ち会っていただけたこと、それによって成し得たこと。本当にありがとうございました。僕はきっと、これからもこのようにして居場所を探しながら、挑戦とつまづきを繰り返していくのだと思います。この十字架を背負って、ここより少し小高い何処かを目指して。受難はつづきます。

「多様」な客席のすがた

今回、『かつてのJ』を会場でご覧になられて、その直後に席を立たれた方がいたようで、それについて、苦言を呈すようなツイートを見かけました。しかし僕は、それは特に言及する必要のないことなのではないかと言いたいです。

他人に、どんな事情があるのかも知らないまま、席を立つ/遅れることを非難したり、観劇に求められる「暗黙のルール」を他人に押し付けることは、あまり良いことではないなと思います。

確かに、最低限のルールというものは、あるとは思います。でも、これもまた、自己責任社会の悪しき影響なのではないかと僕は思います。ルールを守れない人がいた時に、それを整頓したり、損失を補填するようなことが劇場側から提供できれば、それは解消することなのではないか。そもそも、体験が損なわれることが、「損」してしまうと考えてしまうこと自体、何か資本主義の悪い部分が憑依しているようにも思えます。それも、自分の体験が損なわれないように「自分で自分を守らなければならない社会」の副作用なのではないでしょうか。

それに、劇場に来慣れていない人や、劇場を「当たり前以外の楽しみ方」で楽しむ人をこそ、僕たちはどんどん劇場に迎え入れていかなければならないのではないか。劇場だけが、変化する時代の中、不変でいるわけにはいかない。劇場の「暗黙の」ルールも同様です。どうしたら「多様な人が集まる場・劇場」を作っていけるのか。これは、劇団・劇場・制作・観客がみんなで考えて、作っていかなければならない課題だと思います。よりよい劇場づくりのため、新たな試みをどんどんしていかなければならないのです。

そして、劇場側がそれをするだけのコストを払えないという事情が、前述の通り、あります。では、どうやって、その余力を作っていくかというと、これはもう、公的なサポートしか、ないのではないか。

舞台は待つことしかできない

最後に、『かつてのJ』を上演して良かったこととして、僕はいくつかの「ことばのモジュール」を手に入れることができたような気がしています。「舞台は幕が降りれば過去の奈落に沈んでいく、でも未来は客席にある。」これは、僕がずっと追ってきた現実と虚構にまつわる切ない関係の、一つの終着駅のような予感がします。そして、「舞台は待つことしかできない、でも舞台はずっと未来を待ってる。」これも一つの真理だなと思います。十字架、舞台、客席、奈落、さらには僕自身という肖像を、僕はモチーフとして扱うことが、これから可能になるような気もしています。これはすごく、今後の展開が自分で楽しみです。

そして、今回、劇中曲でポップス音楽を作ったことでより実感がありましたが、僕はこれから、ポップスを作っていくことに強く惹かれています。今日、ひょんなことから映画『書を捨てよ町へ出よう』の上映があり、久々に、しかも初めて映画館で鑑賞したのですが、あれはポップスだったのかもしれない、とハッとしました。寺山修司は「造反」(=反体制)のアーティストです。アングラ演劇は、当時、カウンタームーブメントという、ある意味で大衆的なーーーつまりポップスを扇動する存在だったのかもしれないと思いました。現代からすればアングラはアングラでしかありませんが、当時は、「体制」に居場所を見失った人々の大きなうねりが、むしろ大衆的な様相を持っていたのではないか。そう考えると、少し、視点が変わった気がします。

何が言いたいかというと、これから、ポップスを作っていきたい、けれどもそれは、体制に迎合するというわけでなく、多くの人が本当に求めている「居場所」の提供を、手に取りやすい形にデザインして作っていくということなのかもしれない、ということです。

もうすぐ、エリア51として、とある情報を解禁できます。どうぞお楽しみに。

舞台は待つことしかできない、でもずっと未来を待っている。あなたが劇場に来てくれるのを、待っています。

ここでサポートいただいたお気持ちは、エリア51の活動や、個人の活動のための資金とさせていただいております。どうぞよろしくお願いいたします。