死への樹。有限の幹/無限の枝

ポケットモンスター。ダイヤモンド/パール

みたいな言い方だけど、
昼夜問わず考えていたキルケゴールの問いに一つ黒い光がさしたのでそのご報告と、更なる深みからの手招きです。

まず、最近、気づいたことが一つあって、
それは自由とは何か、ということ。

自由とは、一言で言うなれば、
「予定を自分の意思で覆せるということ」であった。

自由であるためにはまず「予定」が必要だった。
昨今、暴力的に拡大していく個人主義・自己責任の流れの先には、この「予定」というものが前提として存在しないので、このままでは僕たちは自由になれない。

しかしこの世界的個人主義化の根幹は自由の追求であり、すなわち覆せる権力「転覆権」(古い言葉で言えば革命権か)を求めて先鋭化していることを忘れてはならない。

これはいわば、逃げる太陽を追い求めて西に進み続けていたら永遠に日の出と出会えなくなってしまった悲しい探検家のようなものであり、さらにその真の絶望は、彼の意思で探検を続けているというところである。

自己責任における人生とは、選択肢が増え続ける人生のことであり、何もかも一度口に入れて味わってみることでしか考えることができなくなる人生のことだ。毒を含んでも構わない、なぜなら薬を求めればいいだけのことであり、もちろんあらゆる解毒薬の作り方が、インターネットを介して得ることができるからだ。だからして、人は毒をも喜んで食う、そのことを美徳とさえ諳んじて生きることができてしまう。

この、自由の暴走時代において、選択肢=可能性の絶望、すなわち無限の絶望はどんどん進んでいく。するとやはり、その救済は有限化=選択肢の限定に傾いていくわけだが、これらもまた、暴走する資本主義においてありとあらゆる付加価値を持って説明され、均一化され、選択肢化されていく。宗教、ハウツー、教養、形はさまざまだがどれも、無限化する世の中において心や生き方を保つためのメソッドに成り下って陳列棚に置かれ、僕たちの前に並んでいる。そしてまた、メソッドに取り込まれたルーティン人間も、それはそれでやはり有限絶望の形相を成してしまうのだ。

出家のことを、世を捨てる、と表現することがあるが、いわんや有限化とは社会や世間を捨てる効果を持つ。いや、そうでなくては効果がない。関わりを断つということでしか、この思弁の沼から抜け出すことはできまい。書を捨てよ町へでよう、ということなのだが、こうした文学的圧縮は解放でなく閉鎖を呼ぶから救いようがない。

もう一つ、実を結んだ考えがある。それは、有限化とは圧縮のことであり、すなわち最適化ということでもあるということだ。しかし掃除機が吸いすぎたゴミを圧縮するのとは少し違う。どちらかというと、大きすぎた写真のデータを小さくするようなイメージの方が近い。画像などは、いくつかのピクセルずつに集結させて小さなグループの集合として再構築することで情報を圧縮する。それはつまり、もとあった要素を平均化していく作業だ。「解像度を荒くする」とも言う。

この、解像度を荒くする=圧縮というのは、色々なところで起こっているのではないだろうか。そもそも写真を撮る行為は、現実にある原子、その光の反射を科学的に再構築して像を作る作業であり、現実の解像度を超えることはありえない。文学や映画、演劇、音楽においても同様のことが言えるのではないだろうか。私たちは生活において「リアル」という圧倒的に高解像度なものに直面し、自分なりの圧縮を施して再構築し何かを生み出す。それは全ての「言葉」にも同じことが言える。

「言葉」はイメージの圧縮されたものであり、多様なイメージを伝えるための魔法ではない。むしろ暴力的なまでに徹底して効率化された低解像度なモジュールであり、非万能な規格品なのだ。

このコペルニクス的回転は僕にとって大きなショックだった。詩や演劇がもたらす、言葉による夢幻の旅は、文字通り無限を象徴する技芸だと思っていたからだ。しかしその実は真逆だった。言葉とは鋭いナイフの先端のことであり、広がっていた夢幻は僕の中で起こっただけに過ぎなかったのだ。

芸術創作は、自分というフィルターを通して世界を眼差した時に、必要なものを抽出し、同時に不要なものを排除する圧縮作業だった。

言葉を発するということ、そして言葉を用いてコミュニケーションすることや、表現を通して発信すること、それらはみな、有限化であり圧縮だ。

言葉はなぜ生まれたのか。言葉は人間の飽くなき探究心、そして圧縮への悪魔的な欲求の賜物だ。人は何かを求め、親から子へ、先生から生徒へ、何かを受け継いでいく。思考や技術を渡していく、より良い何かへ向かって。その時、人が情報を圧縮する技術を持っていなかった場合、何世代を繰り返してもより良い方へは上がっていかない。よって言葉や情報はどんどん圧縮され、受け継ぎやすい形へ変化し続ける。石板から紙とペンへ、凸版印刷からデジタル処理へ。次は思考をAIに託そうとしている。より良い何かへ向かって暴走し続ける。圧縮濃度が高くなる。それはつまり、平均化されて見落とされるものが増えていくということでもある。これは紛れもない有限の絶望である。

そして現代人はこうした圧縮に耐え、コミュニケーションを円滑にする技を持っている。これは最適化である。最適化とは、環境に適応あるいは適応しているかのように振る舞うことを指す。そもそも、圧縮自体に適応化という意味が含まれている。現代人は、高度に圧縮された情報たちを取り扱い、その上で、情報たちをどう取り扱うかというレイヤーでの苦悩にまで直面している。

しかし、そこで考えたのだが、最適化は果たして絶望だろうか、ということだ。ある大学生は、学費を稼ぐためアルバイトしつつ食費を抑えるため自炊し、かつ優秀な成績を収めようと毎日予習復習を欠かさない生活を送っている。バイト先ではバイト先での顔を、学校では学校での顔、しかしながら充実した日々だそうだ。この場合、これは果たして絶望だろうか。それぞれの環境や、その環境たちの総合である彼の生活は、彼の生活を維持するために最適化され、維持され、発展されている。これは本人にとって、苦しいかもしれないが喜ばしいことだ。

維持するということは絶望なのだろうか? もちろん「維持」に対峙した自己が、選択肢を持つかどうかが論点になるのだが、人は生きるために生活を維持する必要があり、ある程度選択肢が限られてきてしまうことから、そもそも有限性に傾いたところで思案する運命にあるのではないだろうか。

やや無理矢理ではあるが、ここで言っていることはすなわち、「生きているということが、すでに究極の有限性を獲得している」ということである。生きている瞬間瞬間は、「維持」という状態にいて、頭の中でいくら可能性について考えていて絶望していても、身体やその存在は有限性へ突き進み続けているのではないだろうか。そしてそれは、絶望でもなんでもない、単に「在る」ということだけなのではないだろうか。

今まで僕は、有限と無限という二言論を発展させるにおいて、左右に伸びる矢印をイメージしていた。左に進めば有限化を深め、右へ進めば無限化が深まる。進めば進むほど絶望の度が増し、引き返すには正反対への力=意思が必要だと。

しかし今僕がイメージしているのは、樹の枝だ。無限とは選択肢のことであり、有限が選択のことであるならば、枝がいくつもに別れている状態が無限の絶望ということになる。だが、まだ絶望は起こらないはずだ。なぜならば、選択者が必要だからである。しかし樹自体には選択できる意思がない。いわば、日光や栄養などの環境に適応して自然に枝葉を分けているに過ぎず、そこに意思が介入していないと思われる。

僕たち人間が、自然と切っても切れない関係であることは説明不要だろう。つまり僕たちは誰もが樹であるとも言えはしまいか? 感情や意思の有無ということで区別することはもちろんできる。しかし、そもそも、その必要があるかどうかというところに議論は立ち返る。

僕たちは環境に適応しつつ、時に抗ったりしつつ生きている。これは、アスファルトに咲いてしまう「ド根性大根」などと同じように、環境と、環境に抗えうるだけの個体力を持っているかどうかの、その巡り合わせによる結果があるだけなのではないだろうか。人間は考える葦であるとかつて言われたが、全くその通りなのだろう。

この、人生の樹は、太陽と栄養があるかぎりどこまでも伸び、枝葉を分け、「成長」していく。そこに善も悪もない。ただ伸びるから伸びるだけであり、増えるから増えるだけであり、生きるから生きるだけだ。枯れるまでの間、自然とともにそこに在り続ける。その樹を待っているのは、いずれ来る「死」だけである。

「死への樹」と、僕はこれをこう呼ぼうと思う。

今まで僕は、「選択肢」という存在が圧倒的に支配力を持っていて、どんなに大きな有限力も、あらゆる選択肢と並んで立ち、どれも均等な価値を持つということによって、無限化の波にすぐに飲み込まれてしまうものだと思っていた。それはつまり、無限に向かう矢印にとっては、ちょっとくらいの有限へのアクセルでは一時的なブレーキにしかならないということだった。しかし今、枝のように広がった選択肢も、全て自己の一部、成長の一部に過ぎないという認識で捉え直している。そう、圧倒的な有限のシンボルたる「幹」がある限り、「枝たちとの総合」はそこに存在することができており、維持できているのである。

自己とは、自己と自己との関係の総合のことである。そしていわば、幹と枝の総合のことでもある。

多くの選択肢を持ちながら生きている自分。
これは紛れもない絶望だが、それでもなお、しぶとく、すり減らしながらもこの世にしがみついている。これは究極の有限であるが、絶望であるとは言い難い。生きていることが何かにとっての障害にならない限り、またそこに何らかの価値を見出せなくなるまでは、僕にとってこれは希望であり続ける。

生きていると本当にろくなことがない。生きていてもいいことは多少ある。楽しいこともある。やり残したこともたくさんある。色々な、「今死ねない理由」があることは間違いない。でも、瞬間瞬間で選択肢を広げて均一化して見た時、「死」という選択が平等に並んでいることは少しもおかしいことではない。今、死ねずにいられているのは、たまたま、それを選ぶことに説得力が持たされず、環境や文脈がそれを強要しなかっただけである。

選択するというのは途方もないエネルギーが要る。自己責任の世の中において、一挙手一投足に自問自答を続け、意味を答え、必然性を確かめなければならないのは地獄だ。清潔と健全が当たり前な世界で、美しい枝葉ばかりが必要とされるにもかかわらず、根や幹はしっかりと持っていなければならない。栄養は行き渡るだろうか。健康な樹と言えるだろうか。

選択肢が増え過ぎた時、一思いにバッサリといってしまいたくなる。もう何もかも終わってくれればいいのに。全部が面倒臭い。虚しさと、憤りと、悲しさと、呆れ。悔しさが込み上げてきて、復讐心に変わってしまう。しかしそれがまた太い枝を増やし、それに支えられる枝たちが力強く繁っていくのだ。人に選択肢を与えるということが、どれだけ影響を与えているのか。この清潔すぎる世の中において、言葉やメールという圧縮された鈍器を投げ合って、感情を裏読みして嘆く日々に人生をすり減らしていくのは結局、日陰に咲いた樹だったからなのか。

僕という一本の死への樹。

成長と共に年輪を刻む。

死んで切り株になったとき、その模様が明らかになる。その唯一無二の美しさが、この樹の実存なのかもしれない。

毒の雨が降るなら毒の実を宿す。それだけだ。

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