好きなものの話

 8月30日。なんか夏が終わる気がしている。実際終わるわけではないと思うけれど、「もうすぐ終わってしまうんだからちょっとくらい自由にしても良くないか」という言い訳のために夏が終わることにしたい気持ちでいる。

 去年の夏はなんか色々作ってた気がしてた記憶があるのだけれど、今年は特段そういう気がしていない。というか何も作れていない。無為な消費がひたすらあったように思う。

 珍しくアニメをリアタイしたり、本の貸出が数百冊増えたり、知恵の輪とルービックキューブが机に散乱したり、ワールドを巡ったり、ライブに行ったり。

 楽しかったな って思ってる。本当に。

 でも自分の精神をずっと削りながらやってるな、とも思う。 ただ好きなものを好きだなって思ってたいだけなのに。傷つくことをずっと恐れて、深入りしないように恐る恐る肩まで浸かろうとしてる。

 楽しい楽しい!大好き大好き!って言えたらラクなんだろうな、とか。でも代償を払いたくないわりと最悪な人間だな、と思う。

 結果として、好きなものの話を残る形で書き示すことが減った。精神を削らなくて良いから。

 誰かがそういうのを書いてるのを見るたびにすごいな…って思って、ちょっとだけ救われたり傷付いたりしてる。

わたしが好きなもの







 もともとここには私の好きなものが羅列してあって、なんやかんやを書いていたのだけれど、結局全部消してしまった。






好きなものの共有

 好きなものをちゃんと好きって言っている友達がいる。めちゃめちゃすごい。で、そういうのを聞くと「じゃあ自分も見てみよう、聴いてみよう」となるわけなんだけれど、それが自分にありえないくらいブッ刺さることがある。めちゃめちゃニワカなのにごめんって思いながら、それでも価値観を変えられるくらいの衝撃を受けたりする。変な生き物だね人間。でも、こういう体験は何度あっても楽しい。

 問題はそこからで、自分はこれを他者と共有したいと思えない。「こんなに良いんだから他の人にもわかってもらいたい」って気持ちがないわけではないのだけれど、万が一にもそれで他の人の価値観を変えてしまったら… と思うと怖くてできない。そんな不可逆の行為に責任を持てない。何度かそれをやって、罪悪感に殺されそうになった。

 他人の人生に介入するのがいつでも怖い。私は背景とかNPCみたいに他人に映っていて欲しい。その人の環世界に私を入れないで欲しい。私のあずかり知らないところでみんな勝手に幸せに生きててくれよ、と思う。

 ただ、自分が作ったものは、自分の人格とは別に存在してる気がしてる気がするので少し許せる。たまに、「あなたの作品が好きです」って言ってくれる人がいて、そういう時「あなたが好きです」じゃなくて心底安心する。そして、「僕もこの作品好きなんだよねー」って話を続けられるのが嬉しい。何の因果かは知らないけど、自分ではない自分の何かが他人に干渉したのなら、それは最高なんじゃないか。何て思う。

好きなものと不器用

 わたしには、好きなものが沢山ある。そして、そのどれもを心の底からは信じていない。建築学科にいるけれど、建築が無力でどうしようもないものだと知っている。美大にいるけれど、芸術が人を殺せることを知っている。CGをやっているけれど、意思が無い画が蔓延しているのを知っている。でもそれはシニシズムにはなっていなくて、それでもできることはちゃんとあると思ってるし、好きなものはそれとしてある。そして、その中で死ぬほどもがいてる人がいるのも知ってる。それを信じてしまった人たちが、意味わからないくらい大量のものを懸けて、不器用に戦ってるのを見ている。そして、そういう人が好きだ。

 ただ、自分はそうはなれない。今のところ全くその気配がない。中途半端に器用だから、全部それなりに信じてしまって、それなりに信じていない。結果、今こんな感じ。何やってんの?

好きなものの純度

 歳を重ねるごとに、人の悪意に触れることが減っていっている。表層的に、良かったこととか楽しかったこととか、嫌なこととか、そんなことばかりを耳にするようになっている。みんなが優しい人、善い人になっていく。でも別に内面の悪意とか善意がなくなったわけではないことを自分は知っている。それを押し留める癖がついただけなんだなって。社会で生きて、幸せになるならそのほうが正しい。みんなハッピーだ。誰も傷つかない。自分だってSNSに内面を書くことはほぼない。誰も傷つかないからラクで良いし。

 今、自分の内面を吐き出す場所は、作る場所に変換されている。受け取りたい人は好きに受け取ってくれたら良いし、キツかったら表層的に見てくれても良いよ。

 内面は純度が高いから、結構疲れる。小中学校の頃とか、何であんなにぶつかりあえたんだろうか。今もできるのだろうか。

 誰かが言ってた好きなものは、どれほどその人の本意だろう。あの頃と違う僕らは、ちゃんと好き嫌いを口にしているだろうか。誰かに好かれるための好き嫌いになっていないだろうか。ずっと不安感が燻っている。

 知ってる世界が広がっていって、いろんな人と話すようになって、どんどん共通の話題が減っていった。嫌いな先生の話とか期末テストの話とか流行ってるゲームの話とか、いつの間にか過去のものになってた。当たり障りのない普遍解を出すようになった。好きなものの話は難しいよ。とても。コミュニティに迎合すればできるのかもしれないけど、その勇気は無くて、微妙な位置にいる。

haruki_haruはコンテンツなのでそれで良いのかもね 

「私」が何を好きかなんて本質的にはどうでも良いことなので。

そうやってふわふわした好き嫌いで世界は溢れている気がしている。不安だけど心地良い。

何が言いたかったんだっけ

 結局、本題部分をまるごと消す暴挙に出た文章になったわけだけど、そんなにめちゃくちゃなことは書いていない…と思う。

 最近思うんだけど、文章って何かを書こうとすると書けなくなる気がする。もっと呼吸みたいに無意識的に書く方がいいのかもしれない。42個の下書きを捨てて、なんとなくそんなふうに思う。

 伝わらなくても別にいいや って思ってやった方が素直で良いものができて伝わってしまうみたいな。そんなところがある、文章。激ムズ。


夏が終わるらしいので、こんな文章を書いていたんだけど、みんなは夏は好きですか。


私は好きですけど




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