『アナログの逆襲 −旅行記』 後編
15.Jan.21xx(☀︎ →☔︎)の続きを読み進める。
15.Jan.21xx(☀︎→☔︎→☀︎)
海岸に着く私たちを、遠くから見つめる彼ら。その目は、私たちを流木同様に自然の一部として捉えているようだった。だが、エイリアンではなく、あくまで同じ星の物体として捉えていたように思う。なぜなら、彼らの姿勢や動向に焦りは見えず、あたかも迷い込んだ子羊を迎え入れるかのように、ドッシリと構えていたからだ。私たちが完全に陸に上がっても、彼らはまったく動じなかった。恐れてはいない。ただ、私たちの上陸を待っている。それは、私たちをエイリアンとしてではなく、迷子の子羊、もしくは同じ星に暮らす何かくらいの感覚で捉えていたからだろう。よくは見えないが、顔の方向はしっかりとこちら側を向いていた。
いつしか、こうして離島に近づいたキリスト教の宣教師が弓矢で殺されたという記事を読んだことがある。あれは確か、インドのセンチネル族とやらだったが、その心配はとりあえずしなくてよさそうだった。インドのその族は、彼らのテリトリーを守るべく、その禁忌を犯す異物を取り除こうとした。それは、至って自然の道理であるようにも思える。だが、おそらく彼らにはテリトリー意識がない、もしくは、私たちから敵意を感じなかったのどちらかであったのだろう。攻撃されなかった後だからこそ言える、いわば結果論ではあるが。もちろんその瞬間は、全ての起きる事象に不安が入り混じり、視界に入る全景には靄がかかっているようだった。
全く動きを示さなかった彼らだったが、私がズボンの水を絞り切ったと同時に動きを見せた。カラフルなルアーナマントに身を包んだ男が、ゆっくりと私たちに歩みを寄せたのだ。彼の手には石器らしきものが握られており、背中に背負われた弓に目を持っていかれる。一歩後ろずさりした私たちに向かって、彼は無言で「こっちについてこい」というような手振りをする。すると、ルアーナマントを羽織った女性と子どもたちも彼の後ろについて歩き出した。帰る道のない私たちは、大人しくついていくしかなかった。
彼らについていくこと約1時間ほど。森の中の坂道を歩き続けた。海を泳ぎ、素性のわからない部族との交流により、私たちは身体的にも精神的にもヘトヘトだった。坂道を歩き続けて森を抜けると、リニアが長い地下のトンネルを抜けた時と同様に、明るい光が差し込んだ。その瞬間は、身体的には安堵だった一方で、精神的には新たな不安の靄を生んだ。だがともかく、ようやく私たちは複数の蔵が立ち並ぶ開けた土地に辿り着いた。おそらく村に近い概念だと察した。村の向こうには高く聳える山が望める。母国でもハイキングは何度かしたことがあったので、この場所がそこそこの高地であることは想像がついた。蔵は太い木の幹がベースとなっており、その間を大きめの軽石のような白い石で埋めてある。屋根には藁が使用されており、どんぐりのようなニット帽の形を模している。村に到着すると、複数の村人が私たちを見つめる。だが、あまり関心を示していないのか、チラッと見るにとどまっていた。もしかすると、私たちは初めてのアウトサイダーではないのかもしれない。一体、私たちは彼らの目にどう映っていたのだろう。
ルアーナマントの彼は、私たち4人全員を狭い家の中に招き入れてくれた。もちろん、ここまでも会話はなかった。家に入ると、何か飲み物を用意してくれているようだった。茶色がかった土器に、焦茶色の飲み物が用意されている。焦茶色の飲み物からは、湯気が立っている。海から出てきたばかりで、少し体温が下がった私たちにとっては、温かい飲み物も苦ではなかった。ルアーナマントの彼は、小さい茶色がかった土器に4人それぞれの飲み物を注ぎ、手渡してくれる。4人とも困惑していたが、当然ここでも "YES" 以外の選択肢はない。一口、ズズッとすする。それは、口の中にとろみを生む芳醇な味わいで、心を落ち着かせた。コーヒーの類だということはすぐにわかった。母の素肌に触れているかのように、その空間が気温とは異なる暖かさに包まれる。独特な緑がかった香りに、ほのかに残る甘い後味。風味はマンデリンに近いが、それ以上に心地よい甘さが口に残る。インドネシアでは一度絶滅したともされるアラビカ種だが、この島でならありうる。
答えは返ってこないと分かりきっていたのだが。だいぶとゆっくりめの英語で聞いてみた。
「W h a t i s t h i s ??」
やはり、答えは返ってこない。代わりに意味不明な言葉が返ってくる。どうやら言葉は通じないらしいことを確認し、心が躍る。この時、島に渡る前の心のときめきを鮮明に思い出したことを覚えている。
このコーヒーを持って帰れたらいいのに。いつでもアナログに浸れる、いわば異世界への入り口として。
私たちは、コーヒーらしき飲み物のお返しに、イギリスから持ってきたインスタントのアールグレイティーを用意した。ちょうどこの村に入ってきた時に、村人同士が何かを物々交換していたのを見たからだ。身振り手振りで火を起こすための薪と藁をもらい、アールグレイを準備する。火起こしは彼に手伝ってもらった。彼はジッとアールグレイを入れる姿を見つめている。同じく、小さい土器にアールグレイを注いで彼に渡すと、彼は私たちがしたのと同様に、疑い深くアールグレイをズズッと啜る。2、3秒ほど目を瞑った後に、勢いよく意味不明な言語を発した。何やら興奮している様子だけは伺えた。
日が落ち始めると、カラフルなルアーナマントを外した彼と一緒にいた女性が、ご飯まで用意してくれた。恐らく、家畜の鶏を煮て作った料理だが、とても美味しかった。夕食は、基本的に手で食べるスタイルである。インドのセンチネル族の話を知ったきっかけもそうだが、私は幾度かインドに関する本を読んだことがある。この島の彼らは、食事を口に運ぶ際は右手を使うのだが、鍋のような土器から食事を取り分ける際には左手で持ったラドル(おたま)を用いた。これは、インドの食事作法と同様である。通常、食事の際には右手で食べ物を口に運ぶ。しかし、口に近づける右手でラドルを持ち、鍋の中身に触れるコトは避けられている。なぜなら、概念的に右手で触れたおたま自体が摂食者の口と同様にみなされ、その食べ物自体が彼の食べ残し、つまり不浄とされるからである。曖昧なのか吟味されているのか、いささか疑問に思うところはあるが、どうやらそういう文化である。私が論理的にどうこう言って変わる類のモノではない。私は、彼らの右手と左手の使い分けを見て、同様にインド式の食事作法を知っている限り取り入れた。
そして、昼間と同様に、食後はアールグレイをご馳走した。彼らが寝支度を始める頃、狭い部屋ではあったが私たちにも藁の布団を用意してくれた。家に招き入れて、藁の布団を用意してくれたところで、滞在を許可してくれたことを察した。そろそろ、灯代わりの焚き火をそのままに、藁の布団に戻って寝よう。何はともあれ、念願のアナログの世界には噂通りに言葉がなく、物々交換が主流であるっぽい。私は、インドネシア語でコーヒーを意味する「kopi」と同じく離島に暮らす「センチネル族」から、その島を「コピネル島」と名付けた。
22.Jan.21xx(☔︎)
私たちは約1週間、コピネル島に滞在した。時の流れが曖昧である。だが、4人の記憶を確認すると約ではなく、正しく1週間であった。
コピネル島での1週間で、どうやらこの島では物々交換が文化として根付いているらしいコトを知った。モノが通貨の代わりをしているようだ。つまり、通貨はない。そして、彼らの村には木や藁で作られた蔵の他に、周囲を広く塀に囲まれた石造の遺跡があった。石造の遺跡自体は山の3合目くらいの位置にあり、高低差のおかげで村からでも遠目に見える。その遺跡には村長が住んでいるとのこと。村に暮らす人々は、毎日のように遺跡に何かを届けていた。見ている限り、何かとは、農業で得た野菜や家畜の動物のような食べ物が多かった。だが、中には陶器を持ち遺跡へと発つ者もいたことから、ある程度役に立ちそうならば、なんでもいいのではないかと思っている。果たして、村長とはどのような存在として、彼らの脳内に生きているのだろう。私は、直感的に存在してはいけない何かがそこにいるような、そんな背中に寒気を覚えるような恐怖を感じていた。
そして、私たちは1週間という間の滞在で、最初に彼が出してくれた飲み物が、島外には出回らないコーヒーの一種なのだと知った。それから、この島の人々は、山の3合目あたりにある遺跡まで行き、自分が農業などで得た何かと物々交換をしているということも知った。カラフルなルアーナマントの彼について行った際に、それを知った。つまり、お供物を遺跡に届けていると思っていた当初の推測は間違っていた。実際には、コーヒーを手に入れるために、わざわざ山の3合目あたりにある遺跡まで行き、自分たちの持つ何かを収めていたのだ。
結局、私たちはこの1週間、村長には会えず仕舞いだった。だが、この島のコーヒーを持って帰るにはきっと、その人と挨拶をすべきなのだろうと感じている。
23.Jan.21xx(☔︎→☀︎)
今日は、日が落ちる前にこの日記を書いている。日記というよりは少しアイデアを記すためのメモに近いかもしれない。
私は、この島のコーヒーを母国に持ち帰り、商売をしようと思っている。今時、母国のみならず、全世界的にフェアトレードという言葉がちゃちなコピーライトのように横行している。モノの良さよりも"フェア"という言葉のみを強調してイイ格好をする。私は常々、そんな上っ面な言葉に嫌気が差していた。私が本で読んでいたアナログ時代には、立場の差がはっきりした貿易が存在し、上下関係があったからこそ上流文化の中で発展した産物があった。だが、現在ではあらゆるトレーサビリティが求められ、半義務的にフェアトレードという刻印が必要とされる。だが、そこに意味などない。かつてのSDGsだってそうだった。本で読んだに過ぎないが、気づけば見栄と上っ面の化粧にまみれたSDGsという言葉は、格好の悪い言葉として映るようになっていた。だから、私は今の状況をそのままに貿易をしようと思う。彼らにインスタントのアールグレイを渡すことで、このコーヒーを母国に持って帰って売ろう。そうすれば、安価にコーヒーを仕入れることができる。さらには、そのお金で母国にアナログな村を自分たちで作ることだってできる。そうすれば、リニアだとかそういう文明の機器を使わずにアナログの世界に入り込める。そういえば、デンマークにも治外に治められている自治の村があったな。そういう異端児のような存在が、いつの時代も一定数の人間を暖かく包み込む。私にとっては、それが行きつけの古書屋さんだった。何も、オリジナリティだのフェアだの、世間一般に蔓延る言葉に囚われる必要なんてないはずなのに、学校ではそれらの言葉の中に私たちの意識は圧縮される。もうそんな時代には飽き飽きしていた。
コピネル島のコーヒーについてハッキリしている事は、私たちが今いる村よりさらに登った場所にある遺跡の敷地で、コーヒーの粉を売買しているということだけである。ルアーナマントの彼が、コーヒーと遺跡を交互に指差して教えてくれた。そこは、崇拝された村長がいる場所でもある。やはり、村長には会わねばならない。明日は、この島に来る日を思って新調した老竹色のオーダースーツを着て、村長に会いに行くとしよう。アナログに包まれた場所が、母国でも作れるのではないかというワクワクに心が躍っている。書き殴ったようなメモだが、いつかはこれを懐かしむ日が来るのだろう。
「ザッ・・ザザ・・・」
やはり、時々ノイズのような音が頭の中でこだまする。頼むから、"私"のアナログ世界を壊さないでくれと願う。
24.Jan.21xx(☔︎)
早朝はスズメの声で起き、いつもの通り朝ごはんとコーヒーをご馳走になったのちに、私たちはアールグレイを彼らにお返しする。そもそもそうだ、彼らが、なぜ高精度な機械が必要な焙煎や品質管理を行なえていたのかを微塵も考えていなかった。頭の中に描かれた理想のアナログ世界に心酔していたからだったのだろうか。自分が愚かで仕方がない。
アールグレイをお返しして、私たちはこの村の村長に会うために、さらに高地にある遺跡に向かった。もちろん、私は草木からなるオーダースーツを身に纏った。それから、村長や村自体に対する敬意を示すために、持参した高級紙に彼らの言葉でいくつかの文字を綴った。内容が確かだったかはわからない。だが、ルアーナマントの彼に身振り手振りで伝えて教えてもらった「コーヒーとアールグレイを交換したい」という言葉を綴った。そして、その高級紙をもって、契約書の体を模した。この無駄に高級な紙を用いた契約書が、彼らにとって意味があるかどうかはわからない。ただ、私たちの中で確認が取れたという体裁さえ持っていれば、その契約書には十分価値があった。見よう見まねで彼らの文字を真似て、コーヒーと自分たちが渡すアールグレイ、ルアーナマントに遺跡を絵や不慣れな彼らの文字で示した。それらを、乾いた潮が少しついたままの、小さな本革のアタッシュケースに詰めて、ルアーナマントの彼と共に出発した。遺跡は、村から約20分ほど歩いたところにあった。島自体もそこまで広くないため、距離にしては短いが、その傾斜が故に容赦なく体力を奪われた。高地という特徴もあり、夜こそ涼しいが、昼間は蒸し暑い気候が続く。さらに降り続く雨によるジメジメとした空気とぬかるんだ傾斜のダブルパンチに、私たちの体力はどんどん擦り減らされていく。何より、いつも何時間・何分くらいで着くのか、ゴールがわからずスタートする精神的な辛さはとてもじゃなかった。
やっとの思いで、遺跡の近くに到着すると、その周囲には塀が設置されており、入り口にはルアーナマントの彼とは異なり、赤一色のルアーナマントを羽織り、弓を持つ若い男性が2人いた。ルアーナマントの彼が、入り口の2人に何やら説明してくれている。すると彼は、私たちが島に泳ぎ着いた時と同様に「こっちに来い」と手招きする。どうやら、敷地内に入ることを許されたようだ。何かと許可じみたものは簡単に取れるのが、この島の特徴でもあった。
敷地の中に入るとまず目に入ったのが、入り口から遺跡まで一直線に続く池。それから、縦に長い四角に縁取られた池の延長線上には、真ん中の1番大きな塔を囲むように立ち並ぶ5つの塔が見える。いつの時代から存在するのだろうか。歴史のオーラに纏われた遺跡に目が釘付けになった。
ふと我に戻り、もっとその遺跡のオーラを吸収すべく周囲を見渡す。すると、木が一面に植えられていることに気づく。ひっそりと身を隠すように緑の実がなったそれらの木は、コーヒーノキと見て間違い無いだろう。木の周りには、おそらく管理者と見られる男女が数人おり、彼らは赤・青・緑といった単色のルアーナマントを羽織っている。彼らは、木を見渡せる場所にある小屋の一つ屋根の下で、何やら談笑しているようだ。以前、ぽつぽつと雨は降っている。
地のパワーに魅了される私をおいて、他の3人とカラフルなルアーナマントの彼は、遺跡の中へと進む。遺跡の中は、想像以上にあっけらかんとしていて、空気はひんやりとしている。壁には至る所に、海洋生物を模した文字のようなものが刻まれている。彼らが話す文字は、この文字と同一かどうかが気になった。だが、契約書に書いた文字の中との共通性はない。遺跡内の道は、ほぼ一直線で、道を進むにつれて空気が徐々に重くなる。入口から村長がいる場所までは、一度しか曲がり角がなかったことを記憶している。曲がり角は、村長がいるであろう部屋の直前の一回のみだった。偉くシンプルな造りには理由があったのだろうか。そして、あらゆる壁面には海洋生物を模した文字やそれらを覆い尽くすようにコケがびっしりと詰まっていた。私たちは、村長がいると思しき部屋の前で立ち止まる。そして、ルアーナマントの彼が、そっと扉を開く。
彼が扉を開けると、計8つの扉が定間隔に置かれた円形の広間に繋がっており、何やら機械音のような音がこだましていた。彼は、真ん中の噴水を避けながら、入口の真正面にある扉に向かって歩き出す。どうやらそこはまだ、村長のいる部屋ではなかったらしい。
とにかく、私たちは彼に置いてかれまいと必死に着いて行く。私たちには、来た道を引き返す術がない。客観的に見ると、カラフルな羽を持つ親アヒルに、何とか付いていくアヒルの子のようだった。
ルアーナマントの彼は、入口と真反対の扉の前に立つと、一度僕らの方を振り返り、ニコリと笑いかける。彼らの表情には嘘偽りがない。とても素敵な優しさを含む微笑みだった。
扉を叩くと、扉は自然と開いてゆく。彼はドアの取っ手を持ち「さあ入れ」と言わんばかりに手招きをする。彼は入らずに入り口の外にいる。そこに入ることが許されていないのかもしれない。
部屋の中は、私たちだけの空間となる。いや、私たちと村長だけの空間。
「ザザ・・・」雨ではない雑音が、脳内を蝕む。
村長は、部屋の奥付近にある書斎机に座っていた。電灯は机周りにしかなく、部屋全体は薄暗かった。だが、彼の姿を見るには机周りの灯りで十分だった。顎も鼻下も髭に覆われた顔は、カストロやチェ・ゲバラを思わせた。彼もルアーナマントを羽織っている。色は黒である。他のモノと一線を画すためなのだろうかと察した。
黒色のルアーナマントを羽織る彼は言葉を発さずに、スッと立ち上がる。ただ静かに手招きし、机まで私たちを呼び寄せると人数分のコーヒーを机上で渡してくれた。いつ何時でも、このコーヒーは心を温かく包んでくれる。改めて、村長に直談判する気概が強まる。
私たちは、交渉を始める前に、まずお湯を借りて、恒例となったインスタントのアールグレイをご馳走した。彼は、ティーバッグの持ち手に書かれた文字を眺めたのちに、躊躇なくアールグレイに口をつけた。その表情がネガティブな反応ではないと読み取ると、すかさず用意してきた見よう見まねの現地言葉が綴られた契約書じみた一枚の紙を見せる。私は、必死にこのインスタントとこのコーヒーを交換したいとの旨を身振り手振り伝えようとした。彼にどれくらい伝わっているかなんて、頭になかった。私にとってはコーヒーを持ち帰ることを「伝えた」という事実が重要であった。当然の如く、村長の口からはなんの言葉も出て来ない。
私たちは、やり遂げた気持ちは持てなかった。だが、この島のアナログさに魅了され、インスパイアされ、次は自分たちだけのアナログな村を作り上げるという目標に心が躍っていた。彼はスッと紙を受け取り、入ってきた扉の方に向かう。カラフルな手飾りをつけた手で、私たちを静かに手招きする。そのまま外に出ると、外にはカラフルなルアーナマントの彼がいる。彼は、村長に向かってペコリと頭を下げる。
村長は、円形の広場を右回りに歩き出す。私たちは何も言わずに付いていく。村長は、右回りに歩き始め、二つ目の扉を開き中へと進む。ここでは手招きされなかったが、付いていくべきだと細胞が私に告げる。そして、部屋へと入ると、そこには大量の麻袋が積まれていた。ほのかに青臭い匂いが鼻まで届く。どうやらコーヒー豆を保管する役割を持つ場所だと察する。高地と石造という特徴が部屋をひんやりと冷やしている。コーヒーの保存には適温なのかもしれない。村長は、操り人形の糸を手繰り寄せるように、入り口で私たちを手招きする。「もう出るよ」と発されない言葉が、冷たい空気を伝って届く。村長は、私たちに豆を渡すためにこの部屋に来たのではないようだ。私たちは余計な言葉を発するわけでもなく、一緒にその部屋を出る。
すると次は、コーヒー豆の保管場所の対角の扉に向かう。今回はカラフルなルアーナマントの彼が扉の前に立ち、村長に扉を開けさせる手間を取らさない。挨拶の具合から見るに、それほど強い上下の力はないが、村長に対する多大なリスペクトはあるようだ。
扉が開かれる。すると、村長の黒いルアーナマントがなびき、私の視界を0コンマ数秒だけ遮る。だが、すぐ次の瞬間には青空が広がる。広大な平野が視界をジャックする。黒目に映る青と緑のキャンバスには、遺跡の入り口で見たコーヒーノキと同様の木が無限に広がり、赤・青・緑のルアーナマントを羽織った人々が多数いる。彼らの中には、コーヒーの実を収穫する者、アフリカンベッドに並べている者などがおり、瞳の中にはその様子が描かれている。
「???」
先ほどまで雨だった気候が変わった。いや、そういうことじゃない。コーヒーの実が収穫期を迎えている。つまり、季節を、時を超えてしまったのだ。村長が一歩扉の奥側へと進むと、収穫中の人々は頭をペコリと下げる。中には手を振る者もおり、島へ到着時に海で見かけた子どもたちも、あの時と同じように走り回っている。だが、今回は私たちの姿を見てもキョトンとは立ち止まらない。
言葉が出てこなかった。頭の思考を司る部分は、歯車に何かが詰まり、ガガッと行き詰まっては、無常にも動かない歯車にエネルギーを送るという作業を繰り返していた。何度考えようとしても、言葉を紡ぎ出そうとしても、歯車が行き詰まっては頭のガソリンのみを奪っていく。終いには、強烈なカレントによって、思考と言葉が、沖へと吸い込まれていく。
そうこうしていると、村長はこちらを振り返り、先程の契約書を私に手渡した。私は、無意識にそれを右手で受け取る。それから、村長はゆっくりと口を開いた。
「Wherever you go, you can't run away from the rusty chain -the reality. That's just the way it is .(どこに行こうが、現実という錆びた鎖から逃れることはできないものなのだよ)」
鼓膜が、忘れていた呼吸を再開する。
「私は、スカルフ。そう、あの系統だよ。君は今、五感に働きかける万物によって、沖の方に流されている。違うかい?ここは、君によって生み出され、私は君の中でしか存在しない。それを裏付けるように、私は君を知っているし、君も私を知っている。」
「ザザーッ・・・」思考の代わりに、ノイズ音が脳内に響く。
「混乱しているようだね。では、まずこの島に来るまでの経緯について話そう。一応、この島の形式的な所有者には、私が任命されているようだからね。私たちの祖先は、母島であるインドネシアで、植民地時代を経験した。そして、あらゆる恥辱に耐え続けた後に、独立を求めた争いに勝ち、自国というアイデンティティを取り戻した。だが、アイデンティティを取り戻してからも、先進国による実質的な支配は続いた。残念ながら、鎖は首に巻かれたままだった。つまり、アイデンティティなんてものは妄想に過ぎない、キレイゴトだった。先進国の奴らは、不公平な取引で周囲のあらゆるものを奪っていく。それは物にとどまらず、飾りだけのアイデンティティすらも対象だった。
そうなってしまった一番の要因は、私たちに彼らと十分にコミュニケートする言語もパワーも知識も金もなかったコトだろう。だが、その後デジタル社会となるにつれ、あらゆる事物は透明化を求められた。私たちの祖先が不公平に扱われることは無くなった。だが先進国の奴らは、私たちの顔に笑顔という役割を求め、それらをカメラに収め始めた。さらには、商品のコーヒーやラベルに私たちの笑顔を結びつける。わかるかい?自分たちの知らない何処かの誰かによって、常にジャッジされ、作り込んだ私たちの笑顔が私たちではなく、その商品のアイデンティティとして彼らの頭に刻まれるようになっていたんだ。
アイデンティティを求める、強制的にアイデンティティを作り出す必要性に駆られる社会。デジタル社会とはそういう世界であり、良い影響も悪い影響も生み出した。私たちはその悪の部分を大いに享受した末に、本土であるインドネシアからこの島にひっそりと移ってきた。いわば、アーミッシュ的存在だな、私たちは。この島の気候条件はコーヒー栽培に適しているため、政府はこの島を遠い昔から表に出さないよう、幻のコーヒー産地として守り続けてきた。私たちの祖先はこの島に移り住む代わりに、極秘にコーヒー管理を行うという体で、ここに移ってきたわけだ。私は、ここで生まれ育った。れっきとした、誇り高き彼らの子孫だよ。
不思議に思わなかったかい?君もコーヒーは飲んだろう。コーヒー豆を焙煎して、挽かれた状態にするなんて、かつてのコーヒー生産地ではあり得なかったことだ。この遺跡のあらゆる部屋には、様々なコーヒーに関する機器が完備されているんだよ。ざっくりと、この島に移り住んできた経緯やいま見た光景の説明はこんな感じかな。」
私は何かを忘れようとしている。脳内に何かが忍び込んでくるような、あるいは、閉じ込めておいたはずの地下牢から何かが這い上がってくるような感じがする。なんとか、再び脳内を支配しようとする。脳内の何か、いや、今は登場が許されない記憶をさらに遠ざける。君はまだ出番ではない。
「ザザ・・ザザーッ・・・」
少しの沈黙を置いてまた村長が話し始める。これほど騒がしい沈黙は初めてかもしれない。
「先ほども言った通り、かつての植民地時代には、誰もこのように言語や知識など、あらゆる対抗の手段を持たなかった。持つことができなかった。そう、君たちが、いや、君がこの島に来てから引き返す術を持たなかったように。」
周りにいたはずの村の人々や他メンバー3人の姿が消え、私と村長2人きりの空間となる。
「だから、村長のみがいざというときの『武器』として、歴代に受け継がれてきた言語、知識などの知を授かる。そういうわけで、私は今、君にこうして話しかけ、対抗できている。君だって今の社会に対抗する術として、ここにくるコトを選んだんだろう?現代にしては、比較的長い時間を実験にかけて得た『武器』を元に。なのに、君はお金という現代社会の鎖からは逃れるコトはできなかった。お金を求め、フェアトレードの対をいく、ずる賢い条件での貿易を私に提案した。そんなもの認められるはずがないんだ。それを断ることで、島民を守ることが、この島で唯一『武器』を持つ僕の使命なんだ。
そして今、君は『現実』という錆びた鎖を知覚し始めている。デジタルとアナログ、自由と不自由、資本主義と社会主義、あるいはこの島のコーヒーとインスタントティー。この世界には秤を平等に保つことができない事象がたくさん存在する。この島を最新の技術で探そうとした時点で、君の心は一時たりとも現実の鎖から解放されたコトはなかったんだよ。」
鎖が、熱で鉄を断つようにじんわりと喉を締め付ける。いっそ、このまま絶えたいとさえ思う。そうだ。私は、現実という錆びた鎖に繋がれたまま、常に生きてきたんだ。アイデンティティという言葉に、手綱を握られたままだったんだ。
村長は、続けて言葉を発する。
「自分自身で決められたはずの運命を、このような形で終えたのは、君自身がこの場所に絶望を求めていたからだろう。違うかい。君が作り出した、広い宇宙の一角に過ぎないこのストーリー。これを通じて、あなたは二度とアナログには戻れないという絶望を確かめた。流れ去った時間は、過去として不変のモノとして記録される。そこには何人たりとも、逆行は許されていないのだよ。例えば、こうしてアナログ世界の中にも『武器』を持つ私がいて、フェアでないトレードが許されないように」
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私の肩を誰かが強く揺さぶる。
「ザザザ・・・ブチッ」
ヘッドギアと脳を繋いでいたコードが無理やり引きちぎられる。それは、記憶をショートさせかねない危険な行為だった。だが、仲間たちは私を取り戻すためにそうせざるを得なかった。
幸いにも私の記憶は保たれていた。コピネル島にいた時間、つまり、メタバースに生きた間の記憶も全て。メタバースから抜け出た後も、私の肌はまだ粟だっている。自ら絶とうとしたこの世界との鎖は、彼らによって繋ぎ留められた。だが、私はこの開発をこれ以上続けることはしないだろう。
私はアナログに魅了され、自らの私利私欲によって、アナログの世界を追放された。私は、メタバースで一生、生き続けるというアイデアを拒み、この意識と仲間たちに別れを告げることにする。
~ End ~
語彙説明
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