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写真とエッセイ | 何もかもがアート、誰もがアーティスト。

私は2003年に東京綜合写真専門学校を卒業したのだが、その時の卒業論文はマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月28日 - 1968年10月2日)とアンディ・ウォーホール(Andy Warhol 、1928年8月6日 - 1987年2月22日)だった。

マルセル・デュシャンは、フランス生まれの美術家で、20世紀以降の美術界に大きな影響を残した人物だが、一般の日本人にはあまり知られていないと思う。

一方、アンディ・ウォーホルは、アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けた、日本でも言わずと知れたマルチ・アーティストだろう。

では、この2人が、何故凄いのか、一体何を変えたのかを少し纏めたいと思う。

マルセル・デュシャンは「アートは目で見て楽しませるだけでなく、考えさせるもの」という価値観を生み出しました。それまでのアートは、「本物そっくりに描けている」「色彩が美しい」といった目で見える部分ばかりが評価の上で重要視されていました。

しかし、デュシャンは、既製品の男性用便器に自分のサインを書き、「泉」(1917)というタイトルをつけて展覧会に出品しました。たちまちこの作品は問題となり、既製品の便器は芸術なのかという論争を引き起こしました。

この作品「泉」によって、「何もかもが考え方次第でアート足りうる」という現代アートが出発する事になり、後にデュシャンは「現代アートの父」と呼ばれる様になります。

アンディーウォーホルは、広告や新聞など大衆文化を主題とし、キャンベル缶やマリリン・モンローなど大量消費される情報を敢えて作品化しました。誰もが簡単に反復・大量生産できる版画(シルクスクリーン)を使い、誰もが知っている商品・人物を題材に取りました。そして商業的な成功も収めた後「将来、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」という言葉を残してこの世を去ります。

これは「私は特別な事をしていない」「誰もがアーティストになりうる」というメッセージであり、情緒的な自我、創造など、芸術にまつわる従来的な概念の排除を試みたウォーホールが、内面性を打ち消せば打ち消すほどアーティストとしてのアイデンティティを確立する事が出来るとの考え方を示しているものです。 

この2人の「何もかもがアート」であり、「誰もがアーティスト」であるという考え方は、現在の私を形作る基礎となっている。こんな素敵な時代・世界に生まれた事を喜ばしく思う。


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