死ぬまで身分を追い求めるのが嫌なら #センセイを捨ててみる。
河合さんは「日本に能力主義を根づかせる必要性」を訴えているわけではありません。学歴社会において誰もが大学進学を目指すという理由の一つに、「身分を獲得するという目的」を挙げているんです。
私たちは例外なく、自他を比較し、優劣を競っている。それは生き物の端くれとして、避けることのできない行為です。あなたが自身のオリジナリティを追求したければ、常に誰かとの比較が必要でしょう。
ところで、「身分を獲得したい」という日本人の心性はどこから来たのでしょうか?
それは河合さんに言わせればこういう理路になります。
ユニークだと思うのは、「日本人には、能力尺度はなじまない」と論じている点です。
何かができるとかできないとかいう視点で、人を見ない。その人を受け入れるかどうかは、おそらく同調性の高低にあったんでしょう。集団のしきたりを守れるのであれば、仲間とみなす、ということです。
一方で、集団を維持するためには、それが大きな集団になればなるほど、「序列」が必要になります。序列のつけ方は、「長幼の序」や「家柄・血統」など、長らく「運命的な」尺度が幅をきかせていましたが、文明化によって「学歴」という尺度が取って代わりました。
しかし、その尺度が「学歴」であれ他の何であれ、「能力」による区別は日本人の心性になじまない。結果、「大学進学」は「能力」に代わる「身分制」尺度として採用されたけれど、それはあくまで「身分」でしかないため、いつまでも内実が伴うことはない。
つまり、この日本において、大学進学によって個人の能力が磨かれることは、未来永劫ないわけです。受験勉強の果てに、「身分」が固定化されたに過ぎない。日本社会はわれわれ構成員に対して、「身分獲得のステップを生涯にわたってクリアし続けること」を求めているんです。
日本人が、民族的・歴史的経緯で「能力」尺度を内面化できない以上、「能力」とは異なる尺度を取り込む必要が出てきます。死ぬまで「身分」獲得のためにムチ打たれるのは誰でも嫌ですから。
現在求められているのは、「身分」に代わる尺度です。それは「能力」でも「学歴」でもない。
急激な人口減が予測されている日本において、多様性の尊重がひときわ叫ばれている日本において、能力や学歴の偏重は、現実的ではない。
いえ。
よく考えてみれば、これはおかしなことです。
人口が減っているから、多様な価値観を尊重すべきだから、ではなく、人の数が多かろうと少なかろうと、社会の趨勢が特定の方向へ向いていようといまいと、一人一人の価値観は大切ですよね。
誰にとっても生きやすい社会を目指す。
日本人にとっては、同調圧力に従うことが、よく言えば協調性があることが、「能力」尺度の上位にあった。ならば、今は能力ではなく、同調圧力にも頼らない、新しい尺度を作り出すときです。
ただ一つ言えることは、その「尺度」は「絶対的なもの」ではないということです。
何かを補完し、
何かに補完され、
ナイーブであるけれど捨てておけない。
時代とともにデリケートな変化を伴いながら洗練されていくもの。
納得解としての「尺度」が求められている。
その尺度は多様な解釈を可能にする余地を持ちながら、同時に普遍性の高いものであるはずです。
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思いつきと勢いだけで書いている私ですが、 あなたが読んでくれて、とっても嬉しいです!