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信じてもらえているからこそ #樹ism
師弟関係を通じて、弟子が劇的な成長を遂げるのは、
「メッセージ」と「アドレス」の間に「ずれ」があるからである。
師が自分に何を告げようとしているのかは分からないが、それが自分宛てであることまでは分かった時、弟子は、それが理解できるようになるために、自分の手持ちの記号システムを離れる。
自分のそれまでの価値観や倫理規範をいったん「かっこに入れる」。
意味のわからない言葉を必死に解釈しようとする。
そういう意味で、弟子は師を信じて最初の一歩を踏み出した時に、まったく無防備な状態になる。甲殻類がいったん身を護ってきた外皮を脱ぎ捨てて、脆弱で傷つきやすい状態を経由しないと、次のフェーズに脱皮できないのと同じである。
教育の場でハラスメントが繰り返し起き、それがしばしば深い傷を教わる側に残すのは、学びが起動するために弟子はこの「無防備」状態を経由しなければならないからである。
師の言動を自分の「既知」の意味システムに落とし込んで理解しようとすることを抑制し、それを「自分の理解を絶した深い意味があるもの」として受け容れ、自分の手持ちの解釈システムそのものをいったん解体し、刷新しようとするからである。
これは弟子としてはまことに「正しいふるまい」なのである。その決断をなしうるということは、すでに学びの道に重要な一歩を踏み出したということである。「奥義の会得」に等しいほど大きな一歩なのである。
問題はこの弟子の決断を利用して、弟子を人格的な支配-被支配の関係に巻き込もうとする人間が「教える側」に存在することである。
内田さんの師弟観を一言で言えば、
下記の点に集約されます。
師弟関係は、
絶対的な非対称性を前提としており、
社会契約として扱ってはいけない。
必然的に、
「学びのゴールが見えないまま学びを始めること」が
デフォルトになる。
弟子は
・損得勘定を抜きにして、
・自分がどうなるか何もわからないまま、
・相手を信じてついて行く。
これは、「教育」を媒介としたあらゆる関係性で交わされるやりとりですが、顕著なのは、もちろん教師と生徒の関係性においてです。
自戒を込めて言いますが、教師は、調子に乗ってはいけません。
自分を信じてついてきてくれる相手に対して、謙虚でなければいけない。
謙虚さを失った瞬間、坂道を転げるように落ちていきます。
「必要なら頼ってほしい」と思うことと、
「私に依存せよ」と無意識にでも思うことは、
紙一重です。
何しろ、24時間「先生」と呼ばれ続けている仕事なわけですから、
勘違いする輩が出てきても、おかしくありません。
現役高校教師
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心理学修士(学校心理学)
NPO法人日本交渉協会認定「交渉アナリスト」1級
一般社団法人7つの習慣アカデミー協会主催
「7つの習慣®実践会ファシリテーター養成講座」修了
思いつきと勢いだけで書いている私ですが、 あなたが読んでくれて、とっても嬉しいです!