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チューリップ、そして『黒いチューリップ』

 今の時期、花屋にはチューリップがならぶ。開花期は早生、中生、晩生と分けられ、それらは、おおむね3月下旬から5月上旬。そもそもは、中東で栽培され、トルコからヨーロッパに16世紀以降に導入される。そしてイギリスやフランス、オランダにも渡り、人気を集めた。この人気ぶりは異常といえるくらいのもので、特にオランダでは「チューリップ狂時代」と呼ばれる約三年間があった。これについては学校の世界史で耳にした方々がいらっしゃることと思う。どれくらい狂っていたかというと、

新品種の球根に法外な高値がついて投機の対象になり、一夜にして巨万の富を得る者や逆に破産する者が続出し、ヨーロッパ経済は大混乱に陥った。

『植物の世界』朝日新聞社発行

と、当時はこれほどまでの価値がチューリップの球根ひとつに付けられていた。日本での球根生産は、これから遅れて約285年後に新潟で始まることとなる。


 今回、ご紹介する『黒いチューリップ』(アレクサンドル・デュマ 著、宗左近 訳/創元推理文庫)は、その「チューリップ狂時代」の物語だ。海外小説は登場人物の名前を把握する(覚える)のが難しいことが多い。今回の小説は長編ながらも出てくる人の名は10名くらいなので、分かりやすい。これらの人々が繰り返し、繰り返し登場しながら話が進んでゆく。
 この小説に関して一般的に主人公とされている登場人物がいるにはいる。けれど、読み手しだいで主人公が異なるのではないか、と思っている。


 『黒いチューリップ』は太陽王と言われるフランス国王 ルイ14世が手に入れようとしていたオランダで起こった、1672年8月20日から1673年5月15日までの「黒いチューリップ」を中心とした出来事が語られている。
 チューリップの栽培、品種改良に没頭する青年が政治の陰謀に巻き込まれ牢獄生活を強いられる。この青年は「黒いチューリップ」の間もなく完成となる球根をつくっていた。ところが青年は、隣に住むチューリップに熱狂的な同業の男に妬まれ、執拗に付きまとわれる。この隣人の狙いは「黒いチューリップ」だ。この頃、オランダでは新品種「黒いチューリップ」の球根に嫁入りの持参金代わりとなるような高額な懸賞金がかけられていた。
 無実ながらも投獄された青年と牢獄看守の娘との恋物語が「黒いチューリップ」誕生に沿って展開されていく。この青年は多くの財産を持つ聡明な青年として、一方、娘は「気高い心情と素直で深い認識の能力を持」つけれども「卑しい社会的な地位」の人間として描かれている。
 

 この小説は「黒いチューリップ」を主軸に、群集心理による読んでいて目をそらしたくなるような残虐な場面や嫉妬からの窃盗事件、親子の関係、そして恋物語などとあらゆる感情が沸き上がる内容で、人間には良しも悪しもさまざまな心の動きがあることを教えてくれる作品だ。また、読者次第であらゆる読み方が可能なのだけれど、終わりは「水戸黄門」的な勧善懲悪ものとして締めくくられる。
 

 そして、青年と娘のロマンスに訪れた幸せは、青年の聡明さだけではどうにもならなかった。心の、精神の、自立が確立されている「気高い心情と素直で深い認識の能力を持」った娘に拠るところが大きいといえるだろう。このことは、作品中にある描写により想像することができる。

つまらないことには、すぐ気がくじけてしまうが、大きな不幸に際会《さいかい》すると、勇気がみちみちてきて、その不幸そのものの中から、不幸とたたかうことのできる力、不幸の埋め合わせをすることのできる力をくみ出すタイプの女のひとりであった。

『黒いチューリップ』p.273

また、読み書きができなかった娘が、青年にこれを習うことを自ら願い出て、それが困難になった時には「ひとりで勉強をしつづけて行こうと決心した」ことでもうかがい知ることができる。娘が読み書きできなければ「黒いチューリップ」の幸福をつかむことはできなかったのである。
 花開いた「黒いチューリップ」について、その姿の描写は次のとおりである。

チューリップはみごとであり、堂々としており、すばらしいものであった。茎は六センチの高さに伸びており、槍の穂先のようにまっすぐ、つややかな緑に輝く四枚の葉のただ中にすっくと伸びており、花はどこからどこまでも、黒檀のように黒く、輝いていた。

『黒いチューリップ』p.253

物語のなかで、「娘」と「黒いチューリップ」は同格とされている場面がいくつか登場する。このことから、この描写が自立した娘のたたずまいをなぞらえていると読み取ることができるだろう。さらに健全な精神の自立を確かなものにしている「娘」が「父親に従属している人間であること」そして、堂々と真っ直ぐに健やかに立つ「黒いチューリップ」もまた「持主」の管理下にあることからも同様である。
 本作の主人公を誰と読むか。
ひとつの読み方として「黒いチューリップ」をそれと進めた時、そこに「娘」が浮かんで見えることに気付かされる。

 現在において「黒いチューリップ」と呼ばれているものには、「クイーン・オブ・ナイト」という名を持つ、アントシアニン色素が含まれた一重咲きのチューリップがある。昨日の花屋でその姿を見つけた。この色のチューリップの花言葉はあまりよくないものだ。それでも、大デュマ(※)の書いた「黒いチューリップ」からは、健やかに自立した精神による美と幸福を感じ取ることができる。



※本作の著者であるアレクサンドル・デュマと、その息子である『椿姫』の作者アレクサンドル・デュマ・フィスとを区別するため、父を「大デュマ」、子を「小デュマ」と呼ばれている。
 

【参考書籍】
1.『黒いチューリップ』(アレクサンドル・デュマ 著、宗左近 訳/創元推理文庫) 初版1971年3月26日
2.『植物の世界』第10巻 (朝日新聞社 発行)

※次回更新は、2023年4月3日(月)を予定しています。



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