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表現の自由サポート vol.1~公共の福祉とは何か?

 本稿はわたしが【表現の自由】を巡る疑問に応えることを通じ、読者のみなさんと一緒に、自分の考えを深めたり整理したりするサポート役になることを期待したシリーズnoteです。第1回は、「表現の自由を制約しうる『公共の福祉』とは何か?」という質問に回答します。

 まずは手元の辞書を引いてみます。公共の福祉とは、「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」であると定義されています(「法律学小辞典 第五版」、有斐閣)。

 しかし福祉という単語を聞くと、老人福祉という言葉があるように、ご老人の介護のような印象を抱く方もいらっしゃるかもしれません。人権相互の矛盾衝突を調整するための原理のことがなぜ、福祉という言葉を用いて呼ばれるのでしょうか。実はこのあたりに「公共の福祉」という概念を理解するにあたってのヒントが隠されているのです。

1.福祉とは何か?

公共の福祉のことを英語ではpublic welfare(パブリック・ウェルフェア)といいます。publicというのはとりあえず直観的に「公的な」と訳すとして、welfareというのは少々耳慣れない単語かもしれません。

welfareをざっくり訳すと、大体「幸福」という意味になります。すると老人福祉というのは老人を介護するということではなくて、本来は「老人が幸福であるための取り組み」くらいの意味だと理解して差し支えないでしょう。健康で安楽な生活を国家が保障することで、老人が幸せに暮らせる生活基盤を保護する。そんなニュアンスの政策概念になります。

 福祉という言葉のニュアンスは大体つかめました。しかし福祉という言葉が大体「幸福」を意味するとして、なぜ「公的な幸福」が「人権相互の矛盾衝突を調整するための原理」になるのでしょうか?

2.public welfareとトマス・ホッブズ的社会観

 その理由を知るために、ある著名な政治哲学者の説法を引用します。その人は、「トマス・ホッブズ」。17世紀のイギリスで活躍した政治哲学者で、「リヴァイアサン」という大著で有名ですが、人間の社会がなぜ成立したのかということについてホッブズはこんな仮説を唱えました。

―万人の万人に対する闘争。

 はるか昔、人間がまだ社会を形成する前の頃(人間が森の中で、他者と協力せず、群れずに一人一人で狩りや採集をしたりしている状況をイメージしてください。この状態をホッブズは「自然状態」といいます)、人間は自分のことを最優先に考えただろうから、自分のほしいものを争ってお互い年中戦争のような状態にあっただろうとホッブズは考えました。

 そしてその悲惨な状況を脱するため、人間はお互いの利益になる契約を結び始め、自分たちをまさに自分たちから守ってくれる「国家」というものを作り出したのだろうと考えたのです。

 例えばこんな原始的な集団を想像してみましょう。その集団はメンバーが10人いて、10人がそれぞれ役割分担してマンモスを狩るのですが、以下の二つのルールにメンバー全員が同意をしています。

①狩ったマンモスの肉は役割分担に関わらず、10等分して分かち合う。
②マンモスを狩ったあとの武器は、みんな同時に武器庫へ収納し、武器庫には必ず鍵をかける。

 彼らがこのような契約的な集団を作ることにはいくつか大きなメリットがあります。例えば、①一人では倒せないマンモスを狩ることができる、②槍の投擲は苦手だが、罠を拵えるような手先の器用さを持った人間が、狩りにおいて自分の長所を活かすと同時に短所を補うことができる、③もし誰か裏切者が出た場合(例えば誰かの肉を強奪しようとした場合)、武器庫の鍵を開け、みんなで武器を携えて素手状態の裏切者を制圧することができる、などです。

 こうしたお互いにメリットのある集団が作れれば、全員が安心して狩りにもいけ、安心して食事にありつき、そして夜も安心して眠れようというものです。集団を作る前は、自分が食事中や睡眠中に武器を持った他人に襲われるかもしれなかったのですから(誰がどうやって武器庫の鍵を保管するかという難問はありますが)。

 このとき、それぞれのメンバーは自分の「自由」のうち少なくない部分を自発的に我慢しています。例えば、狩ったマンモスの肉を自分が好きなだけ食べる自由。自分より力の弱いヤツから肉を奪い取る自由。そして自分の欲望を叶えるために肌身離さず武器を携帯する自由などです。いずれもルールを破ったら、いかに力が強くても、丸腰のまま武器を持った残りのメンバー全員のタコ殴りにあってしまいます。

 しかし自由の我慢にも関わらず、彼らはそれでも「幸福」であるといえるのではないでしょうか。万人が万人に対する闘争状態であった頃よりは、安全で、豊かで、快適な生活を過ごすことができるからです。ポイントは「誰かが飛び抜けて満足をえること」ではなく、「全員が最低限の満足はクリアしている」という点です。

 ここで特定の「個人」が最大の幸福をえることを仮に「私的幸福 private welfare」と呼ぶとすると、「個々人全員」が最低限の幸福をえることを、私的であることに対して「公的幸福 public welfare」が達成されている状態と呼ぶことができるでしょう。

 ある共同体に所属するメンバー全員が一人一人、誰一人として欠けることなく、最低限の幸福追求を妨げられていない状態を目指すこと。これが個人の自由、つまり「基本的人権」をpublic welfareが制約する際の政治学的・法学的な理論的な背景になります。

 このように考えることによって、「 public welfare=公共の福祉」が「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」としてどのように働くのかが見えてきます。ここでいう「公平の原理」というのは、メンバー全員の最低限の幸福追求を損なわないということであって、誰かの幸せを増やすために誰かが不幸せにならないといけないということではありません。

 仮に公共の福祉によって基本的人権を制約されることで一面的には不幸を感じることがあっても、他の場面では(まさにそのように権利が制約されることで)、その人にとって最低限の幸福が保障されるということが公共の福祉原理の真髄です。

3.公共の福祉と憲法上の幸福追求権

 このように公共の福祉による基本的人権の制約は、「幸福」という概念と密接な関りがあります。そのことを日本国憲法の文脈でたどると、以下の条文に注目してください。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(第13条)

 この条文が言わんとすることは、「ある国民の権利行使が他の国民の最低限の幸福追求権に反するとき、その権利行使は制約を受ける」と解釈して差し支えないでしょう。

 基本的人権のことを、例えば憲法25条との関連で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」だと理解すると、「最低限の幸福追求権」という考え方のニュアンスがつかみやすいかもしれません。言うまでもなく、憲法25条は「健康で文化的な最高水準の」生活を営む権利を定めた条文ではありません。

4.公共の福祉による制約の一例

 以上の理解を踏まえ、公共の福祉原理が表現の自由を制約する一例を検討してみたいと思います。

 侮辱罪(刑法231条)は侮辱表現が刑法によって罰せられるもので、侮辱表現が法的に禁止されている顕著なケースです。もし侮辱罪そのものが違憲ではないならば、侮辱罪は国民全員の幸福追求権に反していないということになります。具体的にどう解釈すればよいのでしょうか。

 今回は仮に名誉毀損の加害側をAさん、被害者側をBさんとして話しを進めます。

①Aさんの一方的な侮辱表現は、Bさんの最低限の幸福追求権を侵害する。

②一方で名誉毀損罪が適用すると、Aさんの表現の自由権が侵害される。

③仮にここで、AさんはBさんへの侮辱表現なしには幸福になれないと主張していると仮定する。(侮辱罪はAさんの幸福追求権を侵害するか?)

④しかしもしBさんへの侮辱表現なしにはAさんが幸福になれないとしても、同様にAさんが自分の幸福追求権を侵害するほどの侮辱表現を受けた場合、Aさんが幸福であるとはおよそ考えにくい。Aさんを含めた全国民が、本件レベルの一方的な侮辱表現からは守られるべきであると考えられる。

⑤侮辱表現を制約されるという面ではAさんの幸福は減少するが、同様の侮辱表現からAさんが守られるという他の面では、Aさんの最低限の幸福追求は毀損されていないと考えられる。

⑥従ってAさんとBさんの幸福追求権を比較衡量した結果、侮辱表現は侮辱罪に該当し、Aさんの表現の自由が制約される。

 単に「人権の衝突(Aさんの表現の自由とBさんの人格権)を調整する」と考えるより、「AさんにとってもBさんにとってもそして他の国民全員にとっても最低限の幸福追求権が担保されるためには、どのような権利の調整を行えばいいか」と考えた方が、すっきり整理できる場面が出てくるのではないでしょうか。

5.公共の福祉とは何か?

 公共の福祉とは、「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」です。
 もうちょっとかみ砕いていうなら、「すべての国民に個々人として最低限の幸福追求権が保障されるよう、矛盾・衝突する人権相互を公平に調整するための働き」のことを指すのだとわたしは答えたいと思います。

(了)



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