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リベラルがなぜ嫌われるのか?―リベラルの「中の人」が考えるその理由


リベラルがなぜ嫌われるのか?

 X(旧twitter)上では「リベラルがなぜ嫌われるのか?」というテーマが定期的に盛り上がりを見せるようですが、実は政治哲学の分野では40年ほど前に盛んだった話題なので、簡単にご案内します。その論争は「リベラル=コミュニタリアン論争」として知られていますが、このnoteではリベラルが嫌われる理由をリベラルの「中の人」の属人的な資質の問題に矮小化するのではなくて、あくまでリベラルという思想が抱える理論的な問題だということをお示ししようと思います。

 個人的な事情で申し上げますと、わたし自身がリベラル思想を抱くものですので、このnoteはリベラルの「中の人」が内部から見たリベラルの理論的課題や問題点、リスクなどを批判したものだと思ってください。リベラル理論、特に現代リベラル理論には社会的に嫌われるに足る十分に理論的なリスクを抱えているというのがリベラルとしてのわたしの個人的な仮説になります。

 「理論的に暴走するリベラルに歯止めをかける」。リベラルであるわたしがこのnoteを執筆する社会的価値がいくらかでも認められるとしたら、この一点に掛かっているように思います。しばしば言われるように、歴史的には今がいちばん新しいときなので、歯止めをかけるなら今を置いて他にはないはずです。どれだけ意味があるかはわかりませんが、そんな気持ちから筆を執っています。

 さて、リベラル=コミュニタリアン論争は主に1970年代から1980年代にかけてアメリカを中心に行われた、正義論を巡るエポックメイキングな政治哲学上の論争です。主役はジョン=ロールズとマイケル=サンデルの二人の政治哲学者になります。ここからは少々長くなりますが、功利主義批判(ロールズ)-リベラル理論の確立(正義論)-リベラル批判(コミュニタリアニズム)という大きな流れを頭の中にメモして読み進めていただければ迷子になることはありません。

 今はまだピンとこないかもしれませんが、noteを読み終えたあとにこのメモを見返せばリベラル理論の歴史的背景がざっくりつかめるように作ってあります。まずは歴史的事実から確認していきましょう。

ロールズと功利主義批判

 1971年、ジョン=ロールズというハーバード大の政治哲学の教授が一冊の本を出版しました。タイトルは“A THEORY OF JUSTICE”、邦題は「正義論」になります。この本は理論リベラリズムの革命と評価されていて、今日的なリベラリズムの理論的な骨格をつくった本だったといっても過言ではありません。いわゆるリベラルの金字塔というやつです。

 中身が800ページほどある鈍器本なので内容は非常に多岐に渡るのですが、本件に必要なエッセンスということで一言で要約しますと、「功利主義批判」になります。

 “正義とは最大多数の最大幸福であること”を旨とする功利主義がアングロサクソン社会を支配する倫理哲学として機能する中で、功利主義の負の側面が現実社会に致命的な悪影響を及ぼしているのではないか? とロールズは危機感を持ちました。

 意外なことに日本人にも関係のある話題でして、というのも彼は太平洋戦争に従軍していて、フィリピンで日本軍と交戦した上、終戦後の日本に駐留経験があります。さらには国内を移動する道中で、原爆直後の広島も目撃しています。

 原爆投下の道徳的な根拠の一つは功利主義です。実際、マンハッタン計画を統括したスティムソン長官は、原爆投下によってより多くの米兵と日本人の命が助かると考えました。「最大多数」の「最大幸福」。これが原爆投下の道徳的な拠り所です。しかしロールズはこれを端的に誤りだと考えました。

 事実、彼は1995年に“50 Year after Hiroshima”(1995)という論文を書いて功利主義原理による原爆投下の道徳的な正当化を批判しています。彼の功利主義批判の本質は何かというと、「功利主義的は少数者の不幸を道徳的に正しいこととして認識させ、事実そのように行動させてしまう」という点にありました。

 功利主義のどこがどうまずいのかということですが、「功利主義は最大多数の最大幸福を支持するというが、もし自分が抑圧されるマイノリティーの側に回ったとしら道徳的に支持し続けられないんじゃね?(意訳)」ということです。

 アメリカ人といえども自国に原爆が落とされることになったら、いかに世界全体の幸福を増進させるとしても、どれほどの人が賛成するでしょうか。「功利主義は現実の社会運営に支障をきたすほどダブスタな考え方なんじゃね? それって普遍的な正しさとは言えなくね?」というのがロールズの問題提起でした。

ロールズと正義論

 功利主義に代えてロールズが考えたのが、「だったらどんな立場や境遇の人でも支持できる社会こそが、普遍的に正しい社会といえるんじゃね?」という政治哲学的なビジョンでした。これを例証するために、彼は無知のヴェールとして有名な思考実験を考案します。

 無知のヴェールは、まず、人々が「原初状態」と呼ばれる想像上の状況を設定します。そこでは人々は自分の地位や能力、性別、経済状況などを一切知らない状況に置かれます。この無知の状態で、どのような社会契約が最もフェアかを考えさせることで、特定の権益にとらわれない公正な社会原則が選ばれるとロールズは主張しました。というのも例えば黒人女性に不利益なルールを採用してから無知のヴェールを外したら、実は自分が当の黒人女性だったということがありえるからです。ですので無知のヴェールに基づく社会は、最も弱い立場の人々にとってもフェアなものであるとされます。

 しかしどんな立場の人でも正しいと考えられることはそうそうあるものではありません。したがってロールズは「社会的に正しいことというのはそんなに多くはなく、公正な社会を支える必要最小限のものに留まる。それ以上のことは正しさというより多様性の問題なので、お互い寛容でいようね」という趣旨のことを主張します。あらゆる人の状況や視点を入れ替えても成立するルールが、今日的なリベラリズムが構想する正しさの基準になります。ゆえに理論的に反差別主義を訴えることになります。

 ところでしばしば勘違いされますが、単に「相手の主張を逆手に取って論破する」という思考法はリベラリズムではありません。

 仮に露出をする方も見られる方も好む人物Aさんがいたとしましょう。Aさんの露出癖をやめさせようと思って、Bさんが「もしあなたが見たくもない露出を見させられるとしたら、あなたは嫌じゃないのか?」と質問したとします。Aさんの回答はもちろん、「私が露出を見させられる立場になっても全く差し支えない。はい論破」となりますが、かといってAさんの主張の普遍的な正しさが証明されたことにはならないでしょう。

 Aさんがやったことを鏡写しのようにAさんにし返すことを「ミラーリング」といいますが、Aさんの状況(露出する側と見させられる側)をミラーリングしても、それを評価するAさんの視点が固定になっていては普遍性の検証には役立ちません。Aさんの視点が特殊な可能性があるからです。Aさんの視点で正しさの基準を満たしたとしても、普遍的な正しさの基準を満たすことにはならないのです。普遍的な正しさの基準を満たすためには、Aさんには露出を見させられることを不快に感じる人の視点を想像して考えてもらうことが必要で、このことを「反転可能性テスト」といいます。

 したがってミラーリングを多用して相手を論破しようと試みることはリベラルな思考法ではありません。リベラルな思考法を貫くためには、反転可能性テストを検証する必要があるのです。

サンデル(コミュニタリアニズム)とリベラル批判

 さてこのようなロールズのリベラリズム理論ですが、決定的なポイントは、「功利主義のように考えると、道徳上致命的に問題のある局面が浮上する」という道徳哲学批判になります。ここを踏まえて次に進みます。良かれと思って構想されたリベラリズムが、なぜこうも嫌われものになってしまったのでしょうか?

 一つの答えは、そして少なくない人が認識している答えはおそらく「中の人問題」です。「リベラリズムというのは本来はいいことも言ってたのに、中の人が本来のリベラリズムをちゃんと勉強していなかったり、そもそもあんまり賢くなかったりするからこんなことになってしまったのだ」という認知的な枠組みです。

 これも少なからず正鵠を得ているとは思いますが、「いやそうではない。中の人がまともだったとしても、ロールズのいうリベラリズムには道徳哲学として致命的な欠陥がある」ということを真剣に言い出した人たちがいました。マイケル=サンデルを中心とするコミュニタリアンと呼ばれる人たちです。

 コミュニタリアンは、個人の権利よりも個人と共同体や社会的関係の重要性を強調する思想です。彼らは個人のアイデンティティや価値観は、共同体との関係や文化的背景によって形成されると考えます。個人の権利よりも、共同体内部の連帯意識や共有された価値観が正義や社会秩序の基盤になるという理論的枠組みを持ち、彼らの主張はコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれます。

リベラル=コミュニタリアン論争と「嫌われるリベラル」

 1970年代に発表されたロールズのリベラル理論に、サンデルを中心とするコミュニタリアンが反論をしかけたのが「リベラル・コミュニタリアン論争」です。

 繰り返しになりますが、コミュニタリアンというのは日本語で「共同体主義者」と訳されます。個人を社会の出発点だとみなすのが個人主義だとすると、個人を育て上げるのは共同体なのだから共同体が社会の出発点になると考えるのが共同体主義の理論的枠組みでした。

 さて、そんなコミュニタリアンがロールズをどう批判したか? この批判がいかに哲学的(抽象的)なものだったのかを感じていただくため、ここからは宇野重規著の「リベラル・コミュニタリアン論争再訪」から原文そのままに引用してみます。当時の議論は抽象的ですが、逆に抽象的だからこそ、40年後の今でも―むしろ今でこそ―示唆的に感じられる部分もあるように思えます。

 サンデルは、「負荷なき自我(unencumbered self)」という概念を提示して対抗する。ロールズがいうような「無知のヴェール」をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない。しかしながら、そのような抽象的な自己に、はたして道徳的な判断ができるのだろうか。人間は歴史的・社会的に状況づけられて生きている。そのような状況と切り離された人間は、いわば剥奪された自己でありそのような自己はいかなるものにも愛着をもてず「自分はいかなる存在なのか」について内省することもできない。したがって,そのようなロールズの議論では善を選択することも、正義を構成することもできない、というのがサンデルの結論である。具体的な善と切り離された抽象的正義の空疎さを批判したものといえよう。(p.91)

「リベラル・コミュニタリアン論争再訪」宇野重規

 なんとなく言わんとすることはわかるが、具体的に何を言っているか、さっぱりではありませんか。わたしもつい数年前まではそうでした。

 サンデルが何をそんなに躍起になって道徳的に批判しているのか、わたしがその意味が肌で感じるようになったのは、昨今のキャンセルカルチャーを目の当たりにするようになってからです。コミュニタリアンのリベラル批判は、具体的にはキャンセルカルチャーのリスクを警告したものだったのではないかと、すとんと腑に落ちるようになりました。

 結論が先行しているので、そこに至る経過を解説してきたいと思うのですが、先ほど引用した宇野論文の記述のうち、この部分に注目していただきたいと思います。「『無知のヴェール』をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない」という部分です。もう少し具体的に言い換えると、「相手に反差別的に考えることを求めるということは、相手の『歴史的・社会的属性をはぎ取って』、いったん丸裸な個人になることを要求する」ということになります。さらにこれをロールズ風に言い換えるならば、無知のヴェールを被ってくださいと相手に要求することだといえるでしょう。

 そして、これがキャンセルカルチャーを支える道徳的な根拠に他ならないのではないかとわたしは理解するようになりました。ここでいうキャンセルカルチャーは、「文化的に受容できない思想を促していると考えられる個人や組織等に対して、公然とボイコットし、排斥し、または支援を取りやめる行為または実践だが、そのうちには解雇の要求を含む」と定義することにしましょう。

 ところで職業というのは、その人物および共同体の歴史的・社会的属性の結実に他なりません。なぜなら職業の選択や成功は、家族の背景や地域社会、教育環境など、共同体が長年にわたって形成してきた社会的要因の中で、個人の才能や努力が評価されてきたものだからです。

 相手の職業というものをキャンセルして(はぎ取って)、丸裸になった個人になって考えてもらえれば、特定の権益に根差した差別主義から離れた反差別的な物の見方もできるようになるだろう―これがキャンセルカルチャーが期待する道徳的正当性の一つなのではないでしょうか。

 差別的な物の見方というのは、いい意味でも悪い意味でも共同体が育んできた価値観と無縁ではありません。日本における差別とアメリカやヨーロッパにおける差別に文化的な差があるのは、差別とは共同体が育むものでもあることを示しています。したがって反差別的に物事を評価するようになるためには、自分に内面化されている共同体との歴史的・関係的な結びつきを一旦はぎ取られることを要求されるのです。

 その過程の中で、共同体の中に位置づけられた人間は「剥奪された自己」に貶められ、「愛着をもてない、自分がそうなりたくはない自己」になってしまう。しかしサンデルは、それをリベラル当人が自分に対してそうしてしまうことを危惧したわけですが、まさかのまさか、サンデルの当時の予想をさらに超えて、現実社会はリベラル当人がそれを「他人に対してやってしまう」というステージにまで到達してしまったのではないか。自分のアイデンティティを剥ぎ取るのではなくて、むしろ論敵のアイデンティティを剥ぎ取ることがリベラルの到達点になってしまったのではないか―。わたしはリベラル=コミュニタリアン論争の現代的な評価を、そう総括するようになりました。

 そして「リベラルがなぜ嫌われるか?」に対するわたしの仮説はこのようなものです。公正さに関して、本来は自分へ向かうべき「内側への」内省的な理性を、他者の反省を強要する「外側への」干渉的に暴力に転じてしまったことが、現代リベラルが嫌われる理論的な背景にあるのではないでしょうか?

ロールズの論的転向と政治的リベラリズム

 実際、ロールズはサンデルらの批判を一部受け入れ、約20年後に「政治的リベラリズム」というこれまた大著を執筆します。主な修正点としては、「自己にかかる負荷(共同体における歴史や社会的な属性)をはぎ取って考えるのは、あんまりいい考え方じゃなかったね」ということです。ロールズがもともと功利主義批判から出発したことを思い出してください。

 彼の問題意識としては、「功利主義が機能する場面はもちろんあるが、道徳的に重大な局面で致命的なミスリードを生んでしまうことがある(ヒロシマに対する原爆投下等)。だから社会をリードする道徳的枠組み自体を見直そう」ということでした。

 なので彼は、サンデルらコミュニタリアンから「功利主義が危険だというのはわかるが、あなたのいうようなリベラル的な考え方も理論的にリスクを抱えているのではないか?」という批判を真摯に受け止め、自論を修正したものだといえるでしょう。

 もしロールズが現代のキャンセルカルチャーを目の当たりにしたらどう評価するでしょうか? 彼からすれば無知のヴェールはあくまで思考実験でした。「自分が無知のヴェールをかぶって、いったんあらゆる属性から解放された状態になれば、もちろん自分が不利な立場にいる可能性もあるわけなのだから、損得勘定で考えてみても、ある特定の立場の人が強く不利になるルールを支持しないんじゃないか?」というのを明らかにするのが目的だったといえるでしょう。

 しかしサンデルらコミュニタリアンから「いやいや。思考実験とはいえ、実際にそう考えるようになったらやばいから。自分の属性を一旦はぎ取るという考え方自体に現実感がないし、むしろ現実的にそんなことを考え出したら危険でしょ」という突っ込みを受け、「ぐぬぬ。確かに」となって自説を修正した。ロールズの正義論からの論的転向に関しては、そんないきさつだったのではないかと理解しています。

 一方で、かといってただちにリベラリズムの敗北とか退場につながるということでもないのだろうと考えています。ここまで功利主義―リベラリズム―共同体主義という三つの政治的哲学が出てきましたが、決定的に大事なこと(そして最も教訓的なこと)は、どの政治哲学にも「絶対正義」というものはないんだろうということです。功利主義、リベラリズム、共同体主義。この三つの異なる政治哲学は、むしろじゃんけんのような三すくみの関係なのではないでしょうか。

 幸福量の観点からマイノリティーを抑圧を正当化する功利主義はリベラリズムに批判され、共同体の中で育まれたリアルな“生”のキャンセルを求めるリベラリズムは共同体主義に批判され、そして価値観が衝突する共同体同士の争いを調停するための原理を持たない共同体主義は功利主義に批判される―そんな三すくみの関係です。

 社会はより公正であるために「三権分立」の仕組みで世の中まわっていますが、政治哲学に関しても功利主義、リベラリズム、共同体主義の三権分立で社会がまわっていると考える方が政治哲学的に健康的なのかもしれません。

 それぞれ主張することもごもっともではありますが、「それぞれ批判し合って当然。絶対正義原理はない。むしろそれが社会として健康的」だと寛容的に考えることが社会的には現実的だし、何よりリアリズムということなのかもしれないと、最近はつとにそういう気持ちを強くしています。

 先ほどロールズ晩年の著、「政治的リアリズム(1993年)」を紹介しましたが、主な主張はこんな感じです。この点、法哲学者の井上達夫の指摘が簡潔なので、そのまま引用させていただきます。

 ロールズが言うには、リベラルな社会では、宗教的、哲学的な立場が多元的に分裂しているから、論争的な哲学的立場に依拠しないと受け入れられないようなそういう正義原理じゃダメだ、と。
 じゃあ、何がその支えになるかというと、ロールズが言うのは「重合的合意(overlapping consensus)」。どの哲学的、宗教的な教説からも、理由は違うけど、結論だけ共有できる。「同床異夢」的に。そういうのを、「オーバーラッピング・コンセンサス」という。(p.139-140)

「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」井上達夫(2015)

 理想的リベラリズムから出発したロールズが、晩年に「政治的現実主義(リアリズム)」に逢着したのは、個人的には含蓄深いものがあると感じています。特定文化的排除から、多文化的寛容へ―確かにカール・ポパーのいう「寛容のパラドックス」という理論的難点はあれど、リベラルの金字塔を打ち立てたロールズは論的な転向を果たしました。正義論を発表してから約20年後のことです。最近の「嫌われるリベラル」は、理論的にも20年ほど遅れを取っているのかもしれません。

 ロールズの論的転向は、「なぜリベラルが嫌われるのか?」という問いへの重要なヒントを示唆してくれているように思えます。嫌われるリベラルは今こそ「リベラル=コミュニタリアン論争」から教訓を学ぶべきなのではないでしょうか。

 ちなみにわたしの自認はリベラルでフェミニストです。長い長いnoteでしたが、もし最後まで読んでいただいた方がいたとしたらその方がいちばん寛容な精神をお持ちなんだろうと思います。貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。(了)

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