表現の自由、フェミニズム、誹謗中傷を巡る一考察

 危機感から筆を取らせていただきます。

 私はフェミニストですが萌え絵を含む表現の自由規制には反対しています。全ての女性の権利回復を願うフェミニズムにおいて、クリエイター、それを楽しむファン、あらゆるサプライチェーンにおいてこれだけ多くの女性が参画している以上、不当な萌え絵規制は選択的女性差別に他なりません。

 選択的女性差別とは何か。萌え絵を「性的搾取」「性的消費」「キモい」と感じる女性が、萌え絵を楽しみそして生活の資とする女性の権利よりも、自分たちの権利の方が質的に優れていると過信することです。それは奢りであって、選ばれし女性のみが救われるべきだという新型の女性差別に他なりません。

 フェミニズムの原点は、歴史的にいつだって「女性とは誰か?」という問いです。

 第一波フェミニズムは人類史において男性と同様に「人間としての女性」を発見し、セカンドウェーブは「男性と異なるように感じ、考えるオルタナティブな人間」としての女性を発見しました。

 しかしフェミニズムの発展はそこで留まりませんでした。「女性とは白人女性のことである」という自己批判から、ブラックフェミニズム(黒人女性を主体としたフェミニズム)は「人種の壁を超えた人類」としての女性を発見しました。

 そして今はLGBTを通じ、身体的性別を超えた人間としての女性を発見しつつあります。

 女性の一つの漫画的表現、いわゆる「萌え絵」及びその規制の是非を巡る議論についても、同様に「女性とは誰か?」という問いから出発します。

 私は萌え絵を愛好するオタクを差別するフェミニストたちに問いたい。
 “あなたたちにとって萌え絵に携わる女性は女性ではないのですか”、と。

 もしあなた達の答えがイエスであり、萌え絵に携わる女性を“名誉男性”や“中身はオッサン”などとレッテル貼りして非女性化するならば、それはまさにあなた達が他者の性的自己決定権を握ることに他なりません。

 フェミニズムが最も反対する、女性の自己決定権に対する侵害を良しとするなら、私はもはやあなた達をフェミニストとは呼べません。選択的女性差別者としてその実態に相応しい名称で対決します。私はフェミニストであるがゆえに、そしてまさにフェミニズムの精神によって表現の自由を支持します。

 「萌え絵を支持する女性の権利の方を優先するのか」と反論しますか? 私の答えは否です。表現は原則自由であるという憲法の理念を思い出してください。優先されているのは基本的人権としての表現の自由です。

 もし自分の不快感が表現の自由と抵触するなら、そこから生じるべき次のアクションはバッシングやキャンセル運動ではなくて、萌え絵に携る女性との対話であるはずです。意見交換や討議といったプロセスを経ずに、自分の感情を他の女性の基本的権利よりも優先させることは傲慢に他なりません。

 繰り返しますが、女性が対話によらず他の女性の権利を簒奪することはフェミニズムではありません。

 どうしても気が済まない? どうしても差別したい?

 それなら自分たちは差別主義者だと胸を張ってください。私は差別主義者と対決する心構えを用意しています。

 フェミニズムはむしろ男性と女性、そしてLGBTを含む性的マイノリティーが一緒になって表現の自由を謳歌する現状を評価的に捉えねばなりません。女性は、多様化しているのです。その現実から目を逸らしたフェミニズムは時代性に追いつけていないと私は批判します。

 そして私はフェミニストを誹謗中傷するアンチフェミニストにも物申したい。もし自分の母が、家族が、敬愛するクリエイターが、そして趣味を同じくする仲間がフェミニストであれば、ただそれだけの理由で彼女たちを攻撃してしまうのですかと。

 私たちはまさに表現の自由を尊ぶがゆえに、基本的人権に関心を寄せる価値観を共有しているのではないでしょうか。私たちが批判するのはフェミニズムではなく、私がとてもフェミニストとは呼べない差別者集団による差別、誹謗中傷、SNS暴力だったのではないでしょうか。

 私たちが価値を置くのは自由に表現する人格の尊重だったはずです。全てのベースとなるこうした価値観を放擲してしまうことは、私たちの初心を放擲してしまうことに他ならならないことだと私は危惧します。私たちの出発点を忘れてはなりません。

 フェミニズムはポリコレです。そしてポリコレには破壊力があります。差別主義者たちがそのポリコレウェポンを振り回す現状をこそ、私は批判します。フェミニズムの本懐を忘れ、自身の虚栄や自己満足のためにその武器を振り回す人たちのことを、私はもはやフェミニストとは呼びかねます。

 ジェンダーの要素を含んだ無理難題、難癖、すなわち「ジェンダークレーム」を行う人に他ならないとして私は彼らを批判します。
 ジェンダークレーマーは萌え絵の作者に留まらず、クリエイター全般、企業、芸能人、そしてSNS上で発言するあらゆる一般人の人格的尊厳を毀損する表現に他なりません。

 従って私は原則的な表現の自由を掲げながらも、人間の人格、人間の尊厳を不当に貶める表現を例外的に規制する立場を支持します。すなわち私の態度は以下の命題に集約されます。

私は不寛容に対して不寛容であることを支持する、と。

 今一度、当事者である私たちは原点を見直すべき時期に差し掛かっているのではないでしょうか。

 後から後悔はできません。今の私たちの言動が、後世に後戻りできない決定的な悪影響をもたらすリスクに思いを馳せてほしいと願います。私たちの目的は何を守り、何を次世代に残すことだったのかと。

【あとがき】

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 不寛容に対する不寛容とはどういうものかについて、一つ私が参考にしている動画がありますので最後にシェアさせていただきます。

 アメリカの士官学校の教官が、校内で行われた人種差別に対する訓示を述べた動画であると理解しています。

 これは論理やシミュレーションによって答えが出る世界ではありません。「人間としての尊厳、そして人間としての名誉や誇りとは何か」を問う問題です。

"If you can't treat someone with dignity and respect, then you need to get out."


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