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《当たり前》とは何か? 障碍と配慮と感謝を巡る別考

 ネット論客の青識亜論氏が下記のnote記事を上梓した。わたしは氏のnoteにはほとんど目を通すものの、これまで直接感想を発信することはなかった。しかし今回は自分なりに思うところがあったので、note記事の形にまとめることにした。なるべく小難しくならず、さっぱり呟いていきたいと思う。


1.青識亜論氏のnoteの要約 

 青識氏のnote記事の主旨は、こと障碍と配慮と感謝というテーマに限れば以下の4点にまとめられるだろう。

  1. 配慮の定義:(障碍者や女性への)配慮は有限な感情的リソース。一方的に消費すれば枯渇してしまうもの。

  2. 配慮の持続性可能性:配慮は感謝によって感情的に報われると減った分がチャージされるので、持続可能になる。

  3. 配慮の「当たり前化」:ところで配慮への要求が当たり前化すると、配慮への感謝が示されないことが常態化されるので、稀少な配慮資源が枯渇してしまう。社会は感謝の担い手を必要とする。

  4. 感謝の担い手:ただし障害者や女性ばかりが一方的に感謝し続けることを求められる社会はアンフェア。なので私たち一人一人がさまざまな配慮に感謝しを示し合い、配慮と感謝のシステムを循環させることが豊かな社会の実現に繋がるのではないか。

 こうまとめてみるとわかるように、1~4の論点に関して青識氏の主張は非常に穏健なものだ。なのでこれから述べるわたしの感想にはこれらの主張を特に否定する要素はない。むしろベーシックな主張に徹されているので、折角このテーマについて論考するならば、彼の主張にいくばくかの論点を付け加えられないかと個人的な提案を試みるものだ。どういうことか。氏がnoteで多用する「配慮の《当たり前化》」「感謝」というキーワードを軸に述べてみたい。

 なおこれからの文章はわたしが身体的健常者であることを前提に記している。健常者の視点から考える文章が続くが、読んでいてそのことがつらく感じられる方は恐縮ですがブラウザバックをお願いします。

2.配慮の《当たり前化》とは何か?

 青識氏がいうように、わたしたちは社会や周囲の人々がわたしたちに示してくれた「配慮」に感謝を示さなければならない。社会をより豊かなものにするため、目減り続ける社会的感謝リソースをチャージする必要があるのだ。ところで一体何に感謝を示せばよいのだろうか。言い換えれば、わたしたちが社会によって示された配慮とは具体的に何を指すことになるのだろうか。そしてそうした配慮へ感謝を示すことは、具体的に何を指すことになるのだろうか? この問いが彼のnoteへのわたしの感想の中核に位置するものだ。

 青識氏のnoteは障碍をテーマとして扱っているので、ここでは「わたしたち」の範囲を仮に「身体的健常者」だと定義して検討を加えてみよう。

 わたしたち「身体的健常者」が身体機能に関して、自分への配慮を感じるのは一体どういうときだろうか。

 例えば高校生のXさんが会社に通学しようと駅に向かったとしよう。家から最寄りのバス停からバスに乗って、駅に向かい、改札を通って階段を上り、しばし待ったのちにホームに滑り込んでくる電車に乗る場面を想像してみる。一連の移動の中で、Xさんにとって感謝に値するような配慮としてどのようなものが挙げられるだろうか。些細なことでもいい。もしパッと思いつかなかったら頭の体操だと思って、少し立ち止まって考えてみてほしい。

 もしかしたらある人は、単なる通学移動にはわざわざ「感謝に値すべき配慮はない」と考えるかもしれない。確かにわたしたち「身体的健常者」の多くはただの通勤通学に大きな不便を感じずに過ごしているだろう。

 さて、ここでこちらのネット記事に目を通してみてほしい。高校生新聞ONLineに「はるさん」という当時高校二年生の記者が寄稿した記事だ。

 もしかしたらある人は、記事のタイトルを見ただけでハッとするかもしれない。はるさんは記事の中で以下のように述べている。

現代の日本でも、右利きのために設計されたものが多くあるのをご存知でしょうか? 公共の場で探してみると、エレベーターのボタンや、自動販売機の硬貨投入口、改札などがあります。特に改札では、自分の腕をクロスさせてI Cカードをタッチしています。言われなければ気づきませんでしたが、毎回手元がごちゃごちゃしてしまう理由はこれだったのかとすっきりしました。

左利きの私が感じる「右利き用の社会」の不便さ 改札では腕をクロスしてタッチ|高校生新聞オンライン|高校生活と進路選択を応援するお役立ちメディア (koukouseishinbun.jp)

 厳密な統計なのかはわからないが、一説によると左利きの割合は人口のおよそ1割前後だそうだ。言い換えれば右利きの割合はおよそ9割に及ぶわけで、従ってわたしたち「身体的健常者」もおよそ9割が右利きだと考えて差し支えないだろう。

 そしてもしわたしたちが「Xさんには感謝に値する配慮は見当たらなかった」と考えるとき、実際にはるさんは駅の改札に微かな違和感を覚えていたわけだから、わたしたちは少なくともXさんのような左利きのユーザーの存在を想定していなかったことになる。左利きのユーザーの不便さがあるからこそ右利きユーザーへの配慮が浮かび上がるのだ。だとすると、一体何が言えるだろうか。

駅の改札は、右利きの人に配慮して設計されている。

 健常者だからといって社会が配慮を示していないとは限らない。もし「配慮」に近い言葉として「便宜を図る」と言い換えてみるなら、わたしたちが何らかの便宜を必要とするのはわたしたちが不便を感じるときだ。そしてもし不便を感じないなら、それは社会がわたしたちに不便を感じさせないように既にデザインされたものだからに他ならない。

 わたしたちは単に自分たちの能力のおかげだけをもって不便を感じていないわけではない。むしろ不便を感じないわたしたちは、いちいち不便を感じないように社会から既に便宜を図ってもらっているとはいえないだろうか?

 青識氏は配慮の《当たり前化》が差別を引き起こすメカニズムを以下のようなものとして素描している。

 「当たり前」感覚が蔓延すると、自分は誰か他人に頼ることなく生きている、自立した個人だという思い上がりを生む。そして、「配慮というのは、自分がしたいときにすればいいのだ」という感覚につながっていく。
 それどころか、自らを自立した個人だと思い上がった人々は、配慮が必要な他者を見たときに、劣った人間であると考えるようになる。「当たり前」ができない人間は、一人前ではない者たちとして、差別するようになる。当たり前の感覚が差別を生んだのだ。

《当たり前化》する社会(車椅子と配慮と感謝を巡る論考)|青識亜論 (note.com)

 彼の主張に従うなら、差別の生みの親は配慮を《当たり前》とみなす感覚に由来する。この主張にはわたしも大いに賛成だ。しかし社会がわたしたちに示している「配慮」とは何なのだろうか。一体どこからどこまでのことを指すのだろうか。

 もし「ここまでは当たり前。ここからは当たり前ではない」という線を引く人が現われたとしたら、その人が想定する《当たり前》の基準こそが、差別の温床になりうるとはいえないだろうか。

 先ほどの駅の改札の例で引き続き考えるなら、一説には1台700万円、全国には3万台近くあると考えられる自動改札機で、わざわざ左利き用のものを製造することは費用対効果が合わないかもしれない。ところで《当たり前》に近い日本語として、《仕方ない》という言葉が挙げられるだろう。仕方ないものは仕方ない。仕方ないものはそうなって当たり前だ。わたしたちはしばしばそのように考える。

 しかし「駅の自動改札機の構造は、人口分布からいって一律に右利き用に製造されなければ仕方ない」と考えることは、「駅の自動改札機の構造は、人口分布からいって一律に右利き用に製造されるのが当たり前だ」と考えることにとてもよく似てはいないだろうか。

 もし青識氏の指摘するようにわたしたちが《当たり前》を疑う必要があるなら、わたしたちは《仕方ない》もまた同様に疑う必要がある。なぜなら彼は「当たり前の感覚が差別を生んだ」と訴えているからだ。差別を減らすことが目的である以上、差別の苗床になりうるのなら、わたしたちは《仕方ない》という感覚もまた疑ってかかる必要がある。

 社会から示された、わたしたちにとって不可視化された配慮の存在を思い出す作業を怠ってしまうなら、彼が主張するようにわたしたちは「他者に配慮する能力をも奪」われていってしまうだろう。

3.示すべき感謝とは何か?

 ここまでは青識氏の主張する配慮の《当たり前化》が具体的にはどういうものかを検討してきた。次の段階として、ここからは「配慮への感謝を示す」とは具体的に何を指すのかについて述べてみたい。

 例えば障碍者が介助をしてくれた健常者に感謝を示すケースはわかりやすい。配慮を与える人がいて、配慮を受け取る人がいる。感謝を与える人がいて、感謝を受け取る人がいる。とてもシンプルな話しだ。

 さてここで、先ほどの駅の改札の事例に戻ってみよう。もし駅の改札がわたしたち<身体的健常者(うち9割は右利き)>に配慮して作られているとしたら、わたしたちは誰に感謝を示せばいいのだろうか? もちろん自動改札機を製造したメーカーや、そうした自動改札機を発注し、設置を認めてくれた鉄道会社に感謝を示すことになるだろう。

 しかしわたしたちは右利き用の自動改札機の設置に文句をいわず、少しの不便を甘受して日々駅の改札を通ってくれている左利きの人たちのことをどう考えるべきだろうか。わたしたち右利きの便利は、ある種そうした左利きの不便さの許容のうえに成り立っているとはいえないだろうか。左利きの人たちは、右利き用にデザインされた社会を受け入れることを通じて、右利きの人たちの好便を支えることに貢献しているとはいえないのだろうか?

 このように感謝の対象をどんどん広げていくと、わたしたちの社会はいくら感謝してもし切れないほどの配慮に満ち溢れているといえる。行政もビジネスもプライベートも、社会はあらゆる人への配慮の連鎖によって成り立っている。

 倫理的には、わたしたちは自分たちに示された星の数ほどの配慮に感謝するべきなのかもしれない。しかしそんなことをしていたら社会生活が成り立たないから、わたしたちはどこかで割り切って、感謝の対象を線引きすることになる。感謝に値すべき配慮と、感謝に値しない配慮を選別するようになる。そうしなければ《仕方がない》と…。

 しかしここにもまた、青識氏が危惧するような差別の生みの親が潜んでいるのではないだろうか?

 障碍問題の本当に難しいところは、単に配慮と感謝が循環しないところに存するのだろうか。むしろ障碍者が健常者に感謝を示す場面が多い一方、健常者が障碍者に感謝を示す機会が少ないという、感情的リソース消費の非対称性のうちにこそ潜んでいるのではないだろうか。

 この社会はそもそも健常者が便利に暮らせるようデザインしてあるのだから、健常者が特に横着ではなくても配慮に感謝する機会が少なくて済むように作られている。もし健常者がいちいち感謝を意識化せざるをえないような社会は、むしろ健常者にとって便利に設計された社会とはいえないだろう。

 健常者と障碍者の間の配慮と感謝の循環は、流れるプールのように同じ流れに乗ってぐるぐる回っているのではない。むしろ障碍者が示す感謝を川だとするなら、健常者はそれを受け取る海なのであって、健常者が示す感謝はその海の中を海流のようにぐるぐると循環していると考える方が、イメージとしてはより的確なのではないだろうか。

 川から一方的に流れ込むようなシステムは、早晩河流が枯渇してしまうだろう。感謝は同じく感謝によってこそチャージされるのだ。このシステムを循環系として維持しようとするなら、海から水蒸気が立ち上って雲になり、雨が川の水量を潤すような仕組みが構想される必要があるのではないだろうか。循環系として配慮と感謝の枠組みを捉えるなら、単に健常者の海の中で感謝の海流が回っていればいいという話しにはわたしには思えなった。

 いうまでもなく、日本の法律には「鉄道会社は自動改札機を右利き用のものに限定して設置せねばならない」という定めはない。わたしたち健常者が当然のものとして受け取っている不可視化された配慮は、わたしたちが健常者という名の多数派に属していること以外にその正当性を持たないのではないだろうか。

4.青識亜論氏のnoteへの提案

 なるべくさっぱり呟くと書いて、そろそろ結構な分量になってきた。まさか感想noteが元記事よりも長くなるわけにはいかない。最後に、わたしが青識氏のnoteにどのような論点を付け加えるよう提案するかを述べて、このnoteを締めくくりたい。

 青識氏はnoteを次のように書き出していた。

 イオンシネマでの車椅子対応が、ネットで大きな議論を呼んでいる。障がい者への配慮を巡る問題は、バニラエア事件や伊是名夏子氏の乗車拒否事件など、ネットでたびたび議論になってきた。
 だが、今回のイオンシネマでの騒動は、抗議をした車椅子ユーザーの側にきわめて大きな批判が集まっているという点で、議論のステージが急速に変わりつつあると言える。…(中略)…配慮というものは有限な感情的リソースなのであって、感謝という応酬がなければ、いずれ枯渇してしまうだろう、という予告は非常に正しいものだと思う。
 イオンシネマの事例も、これと同じ「配慮」の一方通行的要求が、感情的な反発を招いている事例であると言えるだろう。

《当たり前化》する社会(車椅子と配慮と感謝を巡る論考)|青識亜論 (note.com)

 青識氏は、今回のケースの本質を「車椅子ユーザーからの配慮の一方通行的要求」にあると素描しているように思える。そして配慮の一方通行的要求が社会の限られた配慮リソースを枯渇させるという構図を描いている。

 一方で、青識氏は配慮リソースの「感情的リソース」面に着目する。社会側の感情的リソースがすり減っていくのと同様に、同じ感情的リソースである障碍者側の感謝リソースにもまた限りがあって、一方的に要求されるならこれもまたすり減っていってしまうことを指摘している。

 白饅頭さんのnote記事が「配慮は有限のリソースである」と指摘したのは正しいが、やはり、「感謝もまた有限のリソースである」ということを忘れるべきではない。
 そして、ここに、この問題の難しさがある。
 生まれながらにして、あるいはやむを得ない事情で障がい者になった人々が、そのような「感謝」という感情労働をし続けなければ、健常者と同じだけのサービスを受けられないなら、それこそが「バリア」「不平等」なのではないか?

《当たり前化》する社会(車椅子と配慮と感謝を巡る論考)|青識亜論 (note.com)

 こういうアンビバレントな制約要因がある中で、閉塞感のある社会状況への処方箋として、最後に彼は読者に訴えかける。

 誤解のないように言っておくが、配慮は、感謝の対価として差し出されるべきものではないし、感謝は配慮のための貨幣ではない。弱者や少数者ばかりが感謝し続ける社会というのは、アンフェアだ。
 そうではなくて、私たちが当たり前と思っているものに、社会の一人一人が感謝しあうことで、「感謝」というリソースを社会のみんなで出し合うような社会が望ましいのではないか、と私は言いたい。

《当たり前化》する社会(車椅子と配慮と感謝を巡る論考)|青識亜論 (note.com)

 こうした一連の主張にわたしは特に異論はない。むしろ関心があるのはこの先に待ち構えているであろう議論の方だ。

 わたしたち《健常者》は差別の種を撒かないよう、自分たちが当たり前とみなしている配慮に対して実際にどれだけの感謝を差し出すことができるのだろうか? 具体的にはその感謝は何に対してのもので、誰に対して行われるものなのだろうか。そしてそれは青識氏が考えるように健常者↔障碍者の間を循環するような応酬システムを形づくっているといえるのだろうか?

 わたしが抱いた印象では、こうした問題設定は「障碍者は健常者側の配慮リソースが有限であることを理解すべき」/「健常者は障碍者の感謝リソースが有限であることを理解すべき」という規範を引き出しても解消に向かわないように思える。

 この問題は、片方が何かをできて片方が何かをできないという問題ではなくて、「両方とも配慮リソース/感謝リソースに限りがある」ということをお互い認め合うところから対話をスタートさせるということなのではないだろうか。健常者と障碍者は確かに身体能力の発揮においてできることとできないことの差があるかもしれない。しかし健常者も障碍者も同じ人間なので、感情的にできることには根本的な違いはないと見なすことはできないだろうか。感情的リソースにおいて障碍者が難しいことは、健常者にとっても難しいということはないだろうか。

 2021年にマイケル・サンデルが「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という書籍を出版して話題になったことは記憶に新しい。主な主張としては、「エリートの努力や実力に見合うものとして与えられた経済的成功は、実はその人が持って生まれた運(生まれた環境等)にその多くを負っており、自身が成し遂げた社会的成功に対してエリートは謙虚の気持ちを持つべきなのではないか」というものだ。

 しかしこの本を読んだからといって実際にエリートが社会に対して謙虚になれたかどうかは難しい。そこに絶望的な悪意が潜んでいるというよりも、それほどまでに人間は自分が偶然に獲得した要素を自分の資産に属するものとしてみなす傾向があるということだろう。

 ―実力も運のうち―。このモチーフは健常者と障碍者を巡る議論でもあらわれる。健常者は自分たちの身体的健常さを、どれだけ運によるものだと実際に謙虚になれるのだろうか。もしかしたらそれはとてつもなくハードな要求なのかもしれない。わたしたち健常者が《当たり前化》された配慮に感謝することは、わたしたちが当然のものとして受け取っている社会的配慮を前景化させることに他ならないからだ。

 つらつらと感想を呟いたが、これまでのような視座を含めると青識氏のnoteにどうのような論点が、そしてどのような書きぶりが加わるだろうか。わたしが自分が同種のnoteを描くとしたら、思い描くのは例えばこのようなものだ。

 イオンシネマに限らず、多くの映画館は身体的健常者の多数利用を想定して設計されているように思われる。事業者側の経済的な事情等もあって、身体障碍者が健常者と同様にスムーズに映画鑑賞を楽しむ機会は相対的に限られているといってよいだろう。
 健常者は多数者である自分たちに向けた商業施設が多く作られていることに自覚を持つ必要はあるものの、先ほど述べたように単に経済的な観点から、設備面でもサービス面においても、全ての障碍者のニーズを満たすような理想的なバリアフリーの映画館の実現には未だに難しさを伴うといわざるをえない。
 設備やサービス面で今以上の充実を求めるなら、健常者が現状の価格で映画を鑑賞することができるかには疑問が残る。その意味で健常者が現在享受している映画鑑賞環境は、障碍者の方々の納得や折り合いの上に成り立っていると言えるだろう。
 限られたリソースの中で、健常者も障碍者も同じように映画という表現作品を楽しむために、映画館、健常者、そして障碍者は互いにどのような考え方を持ち、そして互いにどのような振る舞いを期待しうるのだろうか…

 このような問題提起の仕方をすると、当然「身体的健常者が障碍者へ示すべき感謝リソースの負担が大きい」という反論が出るかもしれない。しかしわたしが関心があるのは、むしろそういった反論の方だ。

 健常者の感謝リソースに限りがあるように、障碍者の感謝リソースにも限りがあるはずだ。健常者が映画を観るときに都度都度障碍者に何がしかの感謝を示しては疲れてしまうように、障碍者も映画を観るときに都度都度施設や健常者の側に感謝を示すことに疲れてしまうという現実があっても不思議ではないだろう。

 だから立てるべきは、「なぜ相手はできないのか?」と求める問いではなくて、「自分はなぜできないのか? もしかしたら相手も同じようにできないのではないか?」と立ち止まる問いの立て方なのではないだろうか。できることとできないことの差は、どんな人の間にもあるだろう。しかしお互いの差異に注目するより、お互いの類似に着目して対話をすることの方が、バリアフリーが目指すべき社会像として効果的ではないだろうか。

 一体何をもってわたしはその効果を判断するのだろう? 青識氏と同様に、わたしも差別感情が少なくなることをもってその効果を評価するように思う。差別は同じ社会に住む人々を、「同じ《私たち》」として語らず、「《私たち》と《私たちではない彼ら》」と分けて語ることにその起源を持つものだから。(了)


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