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なぜ人を撮ってるのかと考えてみた(独り言多数)

人付き合いが最上級に苦手

根っからの引きこもりで人付き合いが苦手な俺が人を撮ってる時点で奇跡なのだけれど。

コロナでいつも以上に独りになる時間が多かったので、そもそもなぜ苦手なのか考えたら、嘘まみれの上辺の付き合いが苦手なことに気付いた。

でもそれは社会で生きていくには必要不可欠なスキルなのだけれど、俺はどうしても苦手だ。

お歳暮なんかのギフト習慣や挨拶回りとかとか、本当に送りたい人には送るし、その必要がない人には送らない。でも世間はそれを許さない。当人の気持ちの大小に関係なく送るのが当たり前なのだ。

話が反れたけど、何が言いたいかというと人目を気にして生きてきた俺には、必要以上に他人を思い、盛り過ぎなくらいのお世辞を使わなければいけないこと、そしてそれを平然と求める社会が生き辛いということ。

じゃあなぜ苦手な「人」撮る?そしてなぜ女性限定?

単純に考えれば、この疑問が生まれてくる。

よく周りに言われるのが、俺の撮るポートレート作品には女性しか出ていないので
単なる女好きとされる説。
そしてセクシーな写真も多いので
女遊びをしているという説。
しかしそれら説は妻子持ちで、片田舎の狭い社会で暮らしてる俺には現実離れした説だ。この説が真実だとしたら、即俺は小社会からプライバシーを剥奪されありとあらゆる制裁を食らっていることだろう。

むしろ俺は、ある作品集を除いて「女性限定でしか撮りません」とした覚えは一切ない。というか、昔からずっと男性をめちゃくちゃ撮りたいと思ってる。しかしモデルの審査基準は女性以上に厳しい。ではなぜ男を撮らないのか…簡単な質問で「いない」のだ。

本当に撮りたいモノ

定かではないけれど、多分俺は社会を生きていく上で必要であろう分厚い社会人としての上っ面の下にある本性が撮りたいのだと思う。そして無言の圧力で決め付けられた

男は強く勇ましくあれ
女はか弱く清廉であれ…etc
の暗黙のルール、世間のレッテルをひっぺ剥がしたい。ある種のノンフィクション、ドキュメンタリーを撮りたいだけなのだ。

男性が女々しく泣いたり、責任感に押し潰されて弱ったりしたら世の女性の理想的男性像からは遠ざかる。
逆に、性に奔放で男遊びが大好き、ぶりっこなフリして実はただの性悪も男性の理想的女性像からは遠ざかる。

それら理想的人物像は社会人、或いは日本人として生きていく上では無視できない、他人からの期待や同調圧力で成り立っている。しかし一人の人間として考えたら、極々普通なことなのだ。他人と違うから、世間的にはタブー視されてるから…そんな理由で自分を偽る必要はない。

何が言いたいのだ

つまり、俺と写真を撮るときは特に…

もっと自分を出してほしい。そして俺は開放されたアナタを撮って写真の中にリアルを残したい。

たぶん、コレだ。
俺が不器用で不自由な分、嘘偽りのない人々のリアルな内面を撮りたいんだと思う。

だからと言って、そういう写真が今撮れているかどうかはまた別の話。

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