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【短編小説】犬の学校

 この子が犬で良かった。

 昨日の雨で落ちた桜の花びらが、地面にじゅうたんのように張り付き、甘酸っぱい匂いを放っている。水を含んだ地面はぐねぐねと柔らかく、走り回る犬たちの足を泥だらけにしている。

 犬用の長靴を履いているティーカッププードルがいて、感心する。背後に立っている飼い主に、「どこで買ったんですか?」と訊いてみたいけれど、奈緒(なお)にそんな勇気はない。

 ドッグランの駐車場に降り立った時、「チョコの足も汚れちゃうな」と心配していたが、杞憂に終わった。1時間も車を運転してドッグランまで連れてきたのに、チョコは地面に降りようとすらしない。奈緒の膝の上で丸くなり、犬の集団から目をそらし続けている。

 チョコは人見知りだから、仕方ないか。そう思おうとしても、がっかりせずにはいられない。また雨が降っても大丈夫なようにと、犬用のジャンパーを新調して着せてきたのに、誰にも見てもらえないのも虚しい。

 茶色い毛をしたロングコートチワワの、チョコ。そんなチョコによく似合う、蛍光ピンクのジャンパー。襟ぐりはイエローだ。男の子なのに、あえてピンクというのがいい。

「ほら、チョコも行ってごらん。みんな、楽しそうだよ」

 そう言って、膝の上のチョコを抱き上げ、地面に降ろそうとする。チョコはまるで火の上にでも降ろされたみたいに、短い脚をばたつかせて嫌がる。奈緒のすねに爪を立て、膝の上に戻ってしまう。

 奈緒はため息をつき、楽しそうに遊ぶ犬たちに目をやる。大きなラブラドールレトリバーと、中型のコリーがすもうでも取るみたいに上半身を付き合わせてじゃれている。茶色のトイプードルと白色のトイプードルが、泥まみれになりながら追いかけっこをしている。その背後では、飼い主らしき50代くらいの夫婦が2組、楽しそうに談笑している。

 チョコが社交的でないことは、飼い始めた時からわかっていたことだった。

 ペットショップのショーケースの中で、1匹だけいじけたように壁のほうを向いていたチョコの姿を、今でもはっきりと思い出せる。他の犬はウインドウを舐めたり、ボールを追いかけたり、犬同士でじゃれあったりしているのに、チョコだけが頑として壁の方を向いていた。

 固い意志さえ感じられる後ろ姿に、奈緒は胸を打たれた。全く犬なんか買うつもりなかったのに、数分後には契約書にサインしていた。一緒にモールに買い物に来ていた母親も、ペットの衝動買いなどあり得ないと責めるどころか、「放っておけないわ」と、奈緒から奪うようにチョコを抱き上げ、頬擦りしていた。

 だから、わかっていたことなのだ。チョコが社交的でないことは。丸くなっているチョコの体温が、奈緒の膝をじんわりと温めている。その熱を愛おしく思い、だからこそ、他の犬と遊ぶ楽しさを味合わせてやりたかったと、胸にくやしさがこみ上げる。

 私のせいか、と奈緒は不意に思う。チョコの「まま」である、私のせいか。ドッグランの広場を挟んだ向かい側では、2、3組の飼い主たちが、楽しそうに談笑している。その足元でリードに繋がれたままのパグやダックスフントが、鼻をすり合わせたりお尻の匂いを嗅ぎ合ったりしている。

 私がもっと社交的な性格で、あの飼い主の輪に「こんにちはー」などと言いながら入っていったら、自然と、チョコも犬の輪に入れるのではないか。すぐには無理でも、毎週通って顔見知りになれば、飼い主も犬も、仲良くなれるのではないか。

 不意に、桜の花びらが舞って、チョコのピンクのジャンパーの上に落ちる。奈緒はそれを指先でつまみ、地面に投げ捨てる。重たいランドセルを背負って、桜の木の下で、吐きそうになるくらい緊張していたあの頃を思い出す。誰にも話しかけられず、おどおどと、教室の隅で怯えていたあの頃。

 無理だ、と奈緒は思う。話しかけるのも、笑い合うのも、毎週のようにそれを繰り返すのも、私には無理だ。ふっとそらされる視線、宙に浮かぶように無視される、奈緒の声。奈緒などその場にいないように繰り出される、奈緒の知らない話題。せっかく卒業したはずのあれをまた繰り返すのかと思うと、ぞっとして鳥肌が立つ。

 キャンキャンと、犬のうちの1匹が吠える。他の犬が、呼応するように小さく吠え、2匹は体をぶつけあってじゃれつく。犬たちはみんな、口を大きく開けて舌をたらし、笑っているみたいに目を細めて跳ね回っている。

 チョコが犬で良かった。奈緒は不意に、強く思う。チョコがもし人間だったら、奈緒が「ママ友」の輪に入れないせいで友達ができないのだとしたら、深く思い悩んでいただろう。

 犬は友達ができなくても生きていくことはできるが、人間で友達ができないのは、死活問題だ。奈緒は身を持ってそのことを知っている。

 帰ろうかと、奈緒は立ち上がりかける。膝の上で丸くなっていたチョコが、慌てた様子で目を開く。なんだ、寝てたのか。そう気づいた時、奈緒の腹の底に熱いものがこみあげた。私はこんなに思い悩んでいたのに、お前は寝てたのかと、突如、怒りに全身が支配される。

「なんで、遊ばないの?」

 自分でも驚くほど、冷たい声が出る。チョコは黒飴のように丸い目をうるうると揺らし、すがりつくように奈緒を見上げている。

 そんなチョコを可愛い、愛おしいと思うのに、同時に、今すぐ、ドッグランの真ん中に向かって、犬たちの群れの真ん中に向かって、放り投げてやりたいような衝動を感じる。

「せっかくままが連れてきてあげたのに、どうして遊ばないの!」

 と、怒鳴りつけたいような憤りを感じる。

 ああ、やっぱり、チョコが犬で良かったと奈緒は思う。人間の男の子だったら、きっと奈緒はその衝動を抑えることができなかっただろう。男の子の腕を引っ張り、少年たちの輪の中に放り投げ、「遊べよ!」と怒鳴っていただろう。

 チョコが犬だから、まあいいやと思えるし、何より、言葉が通じないのだから言っても仕方がないと思える。奈緒の言葉にも、目をうるうるさせて首を傾げているだけのチョコを、心底愛おしく思う。

 奈緒は立ち上がる。周囲に虚しさを悟られないために、笑顔さえ浮かべながら、チョコを抱えて、ドッグランを後にする。

「もう中学生? この春から?」

 こんなとき、自分だけ、時間が止まっていたような気がする。奈緒は、弁当に向けていた目を上げる。パソコンのモニターに身を隠しながら、そっと、同僚の方を見る。

 産休だの育休だのを取り、そのあとは時短勤務をとりと、えらい迷惑をかけられたあの赤ん坊が、もう中学生になるのか。ほんの数年前のように思っていたのに、もう13年も経つのか。

 奈緒と同世代の女性社員たちが、スマートフォンの画像を見せあいながら笑っている。

「うちも昨日、入学式だったの」
「わー、大きくなったねえ」

 同僚が掲げたスマートフォンの画面には、桜の木の下に制服姿で立っている男の子が写っている。あの赤ん坊があんなに大きくなるなんて。
 育休中、自慢げに赤ん坊を抱えてきた同僚の姿を思い出す。七福神みたいに丸々としていたあの赤ん坊が、いつのまにか二足歩行し、制服なんか着ている。

 一瞬、奈緒の視線に気づいたように、同僚たちがちらりとこちらを見た気がした。奈緒は慌てて、パソコンのモニターに身を隠す。

 結婚もせず子供もおらず、実家暮らしで犬まで飼っている。そんな奈緒には、誰も昼食中に話しかけてこない。奈緒だって、他人に全く興味などないから、話しかけたりもしない。互いに、程よい距離感を保てているはずだった。会話に聞き耳を立てていたと思われるのが癪で、奈緒はすました顔で手元のスマートフォンをタップする。

 ホーム画面に設定してあるチョコの写真を見て、ほっと胸が温かくなる。ちょこんと小首を傾げ、不思議そうにカメラを見上げているチョコ。私にはこの子がいる、と奈緒は思う。私だってチョコの「まま」だ。堂々としていればいい。

 奈緒の母親が作った変わり映えのしない弁当をつまみながら、アルバムアプリに入っているチョコの写真をスライドしていく。笑っているみたいに目を細めているチョコ。ぽかぽかした日差しのさすリビングで白いお腹を出して昼寝をしているチョコ。ペットボトルを咥えて目をらんらんと輝かせているチョコ。

 どの写真を見ても、もしかして、うちのチョコって世界一可愛いのでは? と思ってしまう。愛おしくて、胸が潰れそうになる。

 寂しくなんかない。人間の中学生の男の子なんて、想像するのもおぞましい。写真は遠目でチラッと見えただけだが、あんな大きな男の子が家の中をウロウロすると考えただけで、気色が悪くて鳥肌が立つ。

 小さくて温かくて、お菓子みたいに可愛いチョコの方が、絶対に、百倍も千倍もいいに決まっている。そんな可愛いチョコの「まま」である私の方が、きっと幸せに決まっている。今すぐ家に帰って、あの温かい熱の塊を抱きしめたいと思う。

 チョコは今頃、家で何をしているだろう。定年退職した父親と、専業主婦の母親がいる家で、ほとんど口も利かない2人の間を取り持つように行き来して、愛嬌を振りまいているチョコ。ふわふわと、お尻の上で揺れる尻尾を想像するだけで、愛おしさにめまいがする。

「中学受験、どうだったの?」

 不意に、同僚の一人が尋ねている。恐る恐るといった口調だが、抑えきれない好奇心が滲み出ている。尋ねられた同僚は、逡巡するように黙っていたが、やがて小声で語りだす。奈緒には聞き取れない。

 言葉の下で繰り広げられる、マウントと牽制。面倒臭い、人間関係。一歩間違えば、永遠に埋められない溝が開く。奈緒は何度も地雷を踏み間違え、爆発させ、その度に人間関係を失ってきた。奈緒にはうまく読み取れない、空気という名の壁。

 ああ、やっぱりチョコが犬で良かったと、奈緒は思う。私はあんな争いに参加せずに済んで良かったと、心底思う。中学受験が終われば、今度は高校受験、大学受験、就職、結婚、出産。下手したら死に方まで。

 あの子、どうしたの、どうなったのと、一生つきまとう、評価。下される優劣の判断。勝利と敗北。そんなものに、自分も、もう二度と巻き込まれたくないし、ましてや自分にとって最も愛おしい存在である子供、奈緒にとってはチョコが巻き込まれるなんて、心底ごめんだった。それを避けられているだけでも、やっぱりチョコが犬で良かったと思う。

 奈緒は会話から意識を逸らすために、弁当に視線を落とす。給食がない高校生の頃から、大学生になっても、就職してからも、毎日、欠かさず作り続けられた母親の弁当。今日はのり弁、シャケ、卵焼き、ほうれん草のおひたし。明日はゆかりご飯、梅干し、唐揚げ、卵焼き、漬物。明後日は、のりたまご飯、ハンバーグ、ナポリタン、いんげんのベーコン巻き、ちくわ、卵焼き。

 ひたすらローテーションし続けた、母親の弁当。奈緒はずっと同じデスクで、出世もせず同じ仕事をし続け、12時になればロボットのように立ち上がって弁当を電子レンジで温め、蓋を開いて食べ始めた。誰とも口を利かずに、スマートフォンを眺めながら、高校時代からローテーションし続けるおかずを口に運び続けた。

 昨日をコピーしただけのような、奈緒の毎日。その裏側で、赤ん坊が生まれ、ミルクを飲み、食事を取り、すくすく育ち、保育園に入り小学校に入り、ついには中学生になるという。

「何はともあれ、お疲れ様。中学生になると、ほとんど手がかからないでしょ」
「そうそう。子育ては終わった感があるよね。ここからはもう運転手とお金の援助よ」

 2人は何がおかしいのか、笑い合う。その声に、以前はあった棘がなくなっているような気がして、奈緒は不思議に思う。数年前まで、2人は髪の毛を振り乱して仕事をし、定時になると火事でも起きたみたいに仕事場を飛び出していた。最近はそうでもなく、のんびり残業していたりもする。

 奈緒は再び、モニターの陰からそっと2人を伺う。肩の力が抜けたような同僚たち。まるで何かを成し遂げたような、晴々とした表情をしている。

 私だって、がんばっているのにと、奈緒は思う。なぜあの人たちは、まるで大きな何かを手に入れたように偉そうにしているのだろう。私だって、毎日仕事をし、チョコの「まま」をして、がんばって生きているのに、なぜ認めてもらえないのだろうと、不思議に思う。

 なぜ私の手元には、まるで昨日をコピーしただけのようなやるせなさしか、残らないのだろう。奈緒は弁当を見下ろしながら、考えている。

 私だってがんばっている。奈緒は、包丁でキャベツを細かく刻みながら、うなずく。

 足元には、ご飯が出来上がるのを待ってぴょんぴょん飛び跳ねているチョコがいる。キャベツの切れ端を渡してやると、しゃくしゃくと小気味のいい音を立てて食べる。自分や家族の夕食を作りたいという意欲は一切湧かないが、チョコの夕食だけはすすんで手作りした。といっても、市販のドッグフードに豆腐や野菜、鶏ささみを載せるくらいだが。トマトやにんじん、いんげんなどの色鮮やかな野菜を乗せると、茶色く淡白なドッグフードが一気に華やいで、奈緒の気分まで上がる。

 「待て」と「ヨシ!」の流れを済ませると、チョコは脇目もふらずご飯を食べる。奈緒の作った温豆腐とゆでキャベツの夕食をチョコが勢いよく食べてくれることを、嬉しく思う。

「ままの手作りご飯、おいしい?」

 奈緒の質問にチョコは答えてはくれないが、がつがつ食べてくれることが、その答えだと奈緒は一人納得する。

 私だってがんばっている。奈緒はもう一度、思う。チョコの「まま」として、こんなにがんばっている。仕事をしながら朝晩の散歩に行き、ご飯を手作りし、洋服を買い、月に一度はシャンプーをし、3ヶ月に1回は美容院にも連れていく。たまには新しい経験をと、ドッグランやドッグカフェに連れて行ったりもする。

 犬だって、放っておけば死んでしまう。散歩に行かなければストレスが溜まってしまうし、体重管理に気を配らなければ病気になってしまう。トイレだって放っておけばたちまち糞尿だらけになる。

 チョコの「まま」として、こんなにがんばっているのに、どうして私は、あの人たちのように認めてもらえないのだろうと、奈緒は思う。

 うちの子はもう中学生だと、誇らしげに胸を張っていた同僚たちを思い出す。偉そうに。あの時はそう思わなかったのに、今では、奈緒に聞かせるためにあの会話をしていたのではないかという被害妄想さえ浮かんでいる。

 私たちはこんなにすごいことを成し遂げたのに、あなたは一体、この13年間、何をしていたのと暗に言いたいがために、大声であんな話をしていたのではないかと思えてくる。スマートフォンの画面に見えた、目が痛くなるくらい眩しい、桜の花びらのピンク色。

 チョコが人間だったら良かったのに。奈緒は突き上げるように、思う。一瞬でご飯を食べ終わってしまったチョコは、ぺろぺろと、名残惜しそうに口の周りを舐めている。

「大きくなったね、チョコ」

 奈緒は言って、チョコを抱き上げる。ご飯を食べて、心なしか更に重くなった気がする。チョコだって、この家に来たばかりの頃は手のひらに乗るくらい小さな赤ちゃんだった。モールからの帰りの車内で、母親の膝の上でプルプルと震え、おしっこを漏らした、小さなチョコ。それが、奈緒の手作りご飯を食べ、すくすくと育ち、今ではバスケットボールくらい大きくなったのだ。

 奈緒はチョコのぴんと立ち上がった三角形の耳の裏側に頬擦りしながら、こんなにがんばってチョコを育てているのに、そのことを社会的に認めてもらえない歯痒さに、胸をかきむしりたくなる。

 薄く開いたキッチンの窓から、夜の闇が見える。桜の花びらをすり潰したような甘酸っぱい香りと、生暖かい空気が入ってくる。鼻先にあるチョコの生き物の匂いと混じり合って、香ばしい匂いに変わる。

 窓際には、洗った奈緒の弁当箱が、乾かすために逆さにしておいてある。

 昨日も見た光景だった。洗った弁当箱には、明日の朝にはまた母のおかずが詰められて、昼には会社のデスクで開かれ、夜にはここに置かれる。明日も明後日も明明後日(しあさって)も、永遠に、コピーされ続ける光景。

 チョコは成犬だから、もうこれ以上、大きくならない。チョコの成長は、もう目に見える形では残らない。何度もコピーを繰り返して、字が霞んで、色が薄くなっていく会議の資料みたいな、奈緒の人生。資料と同じように、ぼんやりと霞んでいく、奈緒の頭のなか。

 チョコにも学校があればいいのに。不意に、奈緒は思う。そうしたら、私も堂々とあの会話に参加できる。

「うちの子、来年から小学校なんだ。お受験させるか迷ったんだけど、やっぱり子供は伸び伸び育てたくって」

 なんて、胸を張って言える。コピーを繰り返して、徐々に薄くなって、最後には見えなくなってしまいそうな毎日から、抜け出せる。入学だとか卒業だとか、そういう、晴れがましい人生の節目みたいなものがあれば、コピーを繰り返すだけの日常に、新しい一ページが加わる。

「チョコのこと、学校に入れようと思うんだ」

 スマートフォンの画面には、「犬の学校」に関するサイトが表示されている。調べてみて驚いたが、令和のこの時代、犬を学校に入れるのは何ら珍しいことではないらしい。全国各地に、いくつもの「犬の学校」が存在している。

 無駄吠えのしつけやトイレトレーニングはもちろん、警戒心が強く他の犬に吠えてしまうような犬でも、「犬の学校」に通えば、協調性が身につき、友達ができるという。冷暖房完備。送迎車つき。サイトにはそんな謳い文句が踊っている。

「犬の学校? そんなの、あるの?」

 言いながら、母親はいそいそとお盆をテーブルに運んでくる。お盆には、緑茶と、和菓子が載っている。うきうきとした口調を隠そうともしない。昼間は父親と二人きりで気詰まりだから、仕事から帰宅した娘とのお茶の時間を、母親は毎日、心待ちにしている。

 今日は、桜餅。昨日は三色団子だった。明日はどら焼き。その次はたい焼きか。ここでも、毎日がローテーションしている。

 始終つけっぱなしになっているテレビには、夜のニュースが映っている。毎日同じ時間にお茶をするから、必然的に、同じ番組を観ることになる。キャスターは、「また、悲しい事故が起こりました」とさも痛ましそうに顔を歪めているが、昨日も同じ表情をしていた気がする。初めて聞くニュースのはずなのに、何度も見たことがあるニュースのような気がする。

 桜餅を葉っぱごと頬張ると、奈緒の膝の上で丸くなって寝ていたはずのチョコが、咀嚼する音を聞きつけて目を覚ます。すんすんと鼻を鳴らしながら、奈緒の胸に脚を乗せ、口の周りを嗅ぎ回っている。

「これはだめ。食べられないやつ」

 奈緒が言っても、チョコは奈緒の口の周りをぺろぺろと舐めてくる。ざらざらした舌の感触、冷たく濡れた鼻の感触。奈緒はくすぐったくて、笑いながらチョコを抱きしめる。

「こういうね、犬の学校があるんだって」

 奈緒は言って、スマートフォンの画面を母親に突き出すが、老眼の母親はろくに見もせずに、

「学校に行って、何をするの」

 と眉を寄せる。

「色々、しつけとかしてくれるんだよ。何より、友達ができるのが、良くない?」
「友達?」

 母親は桜餅の葉っぱを丁寧に剥がしながら、首を傾げる。

「この前だって、せっかくドッグラン連れてったのに、チョコ、一歩も私の足元から動かなかったんだよ。だから、少しでも社会性が身につけばと思って」

「無理に他の犬と遊ばせることもないんじゃないの」

 母親は桜餅を口に運び、のんびりと言う。歯茎が下がり、齧歯類のように伸びた母親の前歯。あ、ここには変化がある、と奈緒は思う。ちっとも嬉しくない、変化。老いていく母親。

 奈緒はますます意気込んで言う。

「だってこのままじゃ、チョコ、一生、私とお母さんとお父さんとしか関わらないで生きていくんだよ。他の犬は、犬同士で楽しく遊んでるのに。犬同士で遊ぶ楽しさを知らずに死んでいくなんて、かわいそうじゃない?」

「かわいそうかな」

 母親は苦い笑みを浮かべている。てっきり、賛成してくれるとばかり思っていたから、奈緒は母親が乗り気でない理由が分からなくて苛立つ。

 桜餅の分け前を諦めたチョコは、再び奈緒の膝の上で丸くなっている。じんわりとした体温と、呼吸で小さく上下する胸が、愛おしくてならない。この子のためなら、入学金15万円だって、月謝2万5千円だって、ちっとも惜しくない。

 むしろ有意義にお金を使えて嬉しいとさえ、奈緒は思う。肥満防止の高級ドックフード、お洋服、クッション、トイレ、ケージ、首輪にリード。ちっとも遊んでくれない、無数のおもちゃたち。奈緒がこれまでチョコに投資したものが、リビング中に溢れて転がっている。だけど、そのカラフルなものたちが、どれだけこの家族を癒したか。

 チョコがこの家に来てくれる数年前まで、これらのものが存在しない、色というものがほとんどない殺風景なリビングで、両親と奈緒の三人がどうやって暮らしていたのか、もはや思い出せない。

 だからこそ、チョコには恩返しがしたい。我が家を明るく、別世界にしてくれたチョコには、世界で一番、幸せな一生を送らせてあげたいと奈緒は思うのだ。

「続いては、明るいニュースです」

 表情をガラリと変えて、キャスターが言う。テレビの画面が、一瞬で、華やかなピンク色に変わる。

「全国の小学校、中学校で、入学式が行われました」

 画面には、「入学式」と書かれた看板、その横に立って笑顔で写真を撮る親子が映し出される。

「もう中学生なんて信じられません。本当に、あっという間でした」
「大きくなったなあって。感無量です」

 インタビューされた母親が、目に涙さえ浮かべて答えている。

 食べかけの桜餅を手に持ったまま、母親が、テレビの画面を見つめている。奈緒は気詰まりになって、言う。

「そう言えば、同僚の中村さんとこも、子供が中学生になるんだって」
「へえー! あの、時短勤務の?」

 母親には会社での出来事も話しているから、同僚の苗字も通じる。同僚の中村さんには、時短勤務だの子供の熱での休みだの、散々迷惑をかけられたから、奈緒はその度に母親に愚痴を言っていたのだ。

「時短勤務なんかとっくに終わってるよ。あれ、子供が3歳までだもん。その時短勤務で育てた子供が、もう中学生なんだって」
「へえー」

 母親は、思いのほか、深いため息を吐いた。「時が流れるのは早いねー」と、一緒にしみじみしてくれるかと思ったのに、母親の横顔には、暗い影が差している。

「あなたも、チョコちゃんの心配ばかりしてないで、自分の心配したら」
「え? 心配って何」

 思いがけない言葉が母親から飛び出して、奈緒は笑う。

 母親は、苛立ちを表明するかのように、桜餅を乗せていた皿を乱雑に重ねながら、言う。

「奈緒ちゃんもまだ40なんだから。これから相手探せば、子供だって間に合うかもよ」
「いや子供とかいらんから」

 奈緒は即答する。散々、繰り返した議論だった。チョコを飼ってからすっかり下火になっていた議論が、久しぶりに蘇って、やっぱりチョコ効果はすごいと、奈緒は思いながら言う。

「私はチョコの“まま”だもんねー。だから人間の子供なんかいらんのだよ」

 わざとおどけて言ってみせる。膝の上でうとうとしていたチョコをむりやり抱き上げて、頬擦りする。

「チョコは犬じゃない」

「犬だからいいんだよ。中村さん、中学受験の話とかしてて、大変そうだったよ。犬は学校も受験もないし。そういう心配しなくていいのって、本当に幸せだなって思うよ」

「もちろん、そういう心配もあるかもしれないけれど」

 母親は言って、湯呑みを両手で包む。

「本当に、子供は可愛いのよ。あなたに子育ての幸せを味あわせてあげられないのが、お母さんは歯痒くて」

 奈緒は鼻で笑う。

 子供、以前の問題だ。

 男、いや、人間とさえまともに付き合えないのに、この母親は何を言っているのだろうと、奈緒は思う。

 ドッグランで、奈緒の膝の上から動かなかったチョコ。楽しそうに話す飼い主同士の輪に全く入っていけなかった、奈緒。会社でも入社以来18年間、一人で弁当を食べ続けている奈緒。

 この母親は、何もわかっていないと、奈緒は思う。

 自分の娘が、まともに他人と関われると思っている。こんな歳になって、こんな時間に、こんなところで母親と向かい合って桜餅を食べているような娘が、それが何を意味するのか、この母親は何もわかっていない。

 奈緒はチョコを抱き抱え、転ばないように慎重に階段を昇り、2階の自分の部屋へ戻る。

 横開きのドアを開けると、子供の頃から使い続けている学習デスクが目に入る。小学生の頃から変わらない、花柄のカーテンがかかった窓からは、生ぬるい風が入ってくる。

 この部屋に入るたびに、まだ学習デスクの脇には赤いランドセルが引っ掛けてあるような気がするし、デスクの上には電動鉛筆削りが置いてあって、引き出しにはクーピーや分度器やコンパスが入っているような気がする。

 もちろん、そんなものはとっくに全部押し入れにしまっていて、今デスクにあるのはスマートフォンの充電器やノートパソコンの類だ。それでもなぜか、この部屋に戻ると、あの頃を思い出す。コピーはもしかして、あの頃からずっと続いているのではないかと、奈緒は思う。

 かりかりと、チョコに脛を引っ掻かれて、奈緒は現実に引き戻される。この子だけが、あの頃と違う。チョコだけが、唯一、コピーされる日常から、抜け出してくれる存在だと、奈緒は思う。

 奈緒はベッドに寝転がる。スマートフォンを開き、「犬の学校」のサイトを開く。日常を壊す。壊してくれるのは、この子だけだと、ベッドによじ登ってきたチョコの毛を撫でながら、申し込みボタンをタップする。

「いってらっしゃい」

 手を振った奈緒を、信じられない、という目で、チョコが見ている。

「では、お預かりします」

 トレーナーらしき男性が、チョコの入ったケージを、奈緒の手からあっさり取り上げてしまう。男性は、「犬の学校」と背中にポップな字体で書かれたユニフォームを着ている。ユニフォームには無数の動物の毛がつき、男性の全身からは、まるで獣の皮をかぶっているような強烈な臭いがする。

 「キャン、キャン!」と泣き喚くチョコになど一切目もくれず、男性はハイエースの後部ドアを開き、まるで荷物のようにケージを積み込んでいく。下段には先に乗せられた大小のケージが積み上がり、犬たちが怯えたような目でこちらを見ている。

「キャン! キャン!」

 まるで「まま! まま!」とでも言うように、チョコは奈緒を一心に見つめて、吠え続けている。奈緒は胸が苦しくなって、やっぱりやめようかと、ケージに向かって手を伸ばしてしまう。

「お母さん!」

 ぴしゃりとしたトレーナーの声が飛んで、奈緒は手を止める。

「お母さん、笑顔ですよ。笑顔で、バイバイしてくださいね。これから、とっても楽しいところに行くんですから。わんちゃんに安心してもらうためにも、笑顔でバイバイしてくださいね」

 トレーナーに言われて、奈緒は笑顔を浮かべる。何より、「お母さん」と呼ばれて、嬉しかった。チョコの「まま」としての自分を、初めて社会から認められた気がした。これでこそ、「学校」だ。「学校」へ「入学」していくチョコの乗ったハイエースが、けたたましい音を立てて、家の前から去っていくのを、奈緒は胸に手を当てて見送る。

 チョコがいないリビングは、しんと静まりかえっている。あまりにも静かで、耳が痛くなりそうだった。

 父親はソファで新聞を読み、母親はキッチンで作業をしている。奈緒も見送りから戻ってきて、三人も大人がいるのに、誰も喋らない。時折、父親が新聞をめくる音と、母親が皿を重ねる音が聞こえて、その音があまりにも大きく響いて、身をすくめてしまう。

 趣味もなく、友達もいない。土曜日も日曜日も、どこへも出かけない。ひたすら、リビングをうろうろし、会話もほとんどせず、決してぶつからないように器用に体をかわしながら、それでも同じ家にい続ける、奇妙な夫婦。それが奈緒の両親だった。

 そんな両親に育てられた奈緒が、一人で思い立ち、世界へ飛び出して、趣味を見つけて友達を見つけることなんか、できようはずもなかった。見本がないのだから。やり方がわからないのだから。そもそも、そんな華やかな日常が存在することを、知ることさえできなかったのだから。

 その結果が、これだった。静まり返ったリビングで、ただ時間が過ぎるのを待つだけの、3人の大人。40歳の娘と、70代の両親。チョコがいないと、改めてその現実を突きつけられる。

 土曜日も日曜日も、時間が止まったような奇妙な空気を、はちゃめちゃに壊してくれるのが、チョコだった。新聞を読んでいる父親の膝の上によじ登り、びりびりと新聞を破いて床に撒き散らす。

「こら! だめでしょ!」

 と叫ぶ母親の声は、喜びに満ちていた。じゅうたんやカーテンにチョコがおしっこをするたびに、「あー!」と母親と奈緒が叫び声をあげ、家の温度が上がり、空気が溶け、時間が動き出した。

 あの子が、あの小さな命の塊がいなければ、この家は、このまま家ごと凍りついて、化石になってしまいそうだった。

「犬はどうした」

 新聞をめくりながら、父親が言う。父親は決してチョコを名前で呼ぼうとせず、いつまでも「犬」と言う。チョコが膝に乗ってくるのを密かに喜んでいるくせに、自分は犬になんか興味がないというポーズを取り続けている。

 父親のそんなところも、奈緒は虫唾が走るほど嫌いだった。なんていうか、すごく、子供っぽい。

「犬の学校に行ったんですって」

 キッチンにいた母親が、笑いを含んだ言い方をする。

「なんだそれ。馬鹿馬鹿しい」

 父親は鼻で笑い、新聞をばさばさとめくる。あんたに言われたくない。不意に、奈緒の腹の底に怒りが込み上げる。

「友達の作り方、教えてくれるんだって。お母さんたちも行ったら」
「はあ?」

 驚くほど、母親がきつい声をだした。だから奈緒も、負けじと言ってやる。

「土日もずっと家にいて。お母さんたちこそ、学校でも行って、友達作れば」
「あんたでしょう、それは。40にもなって、結婚もしないで。犬になんか金かけて」

 母親が言い返してくる。ああ、やっぱり、だめだ。奈緒は唇を噛む。チョコがいないと、すぐにこうなる。チョコがいなかった頃の、ぎすぎすしていた空気を思い出す。週末のたびに、こんな言い争いをしていたこと。

 今ここに、チョコがいれば。ゴミ箱をあさってペットボトルを取り出し、べこべこと音を立てて噛みながら、「こら!」と嬉々として追いかける大人たちの間を走り回ってくれるチョコがいれば、こんなことにはならなかったのに。

 今日はチョコがいない。チョコは1人、新しい世界に飛び込んでいる。あんな小さな体で、たった1人、新しい世界に挑んでいる。まるでチョコに勇気を得たように、奈緒は言う。言えなかったことを、言う。

「あんたたちじゃん、元凶は」
「何が」

「人間関係、誰よりも築けてないの、あんたたち夫婦じゃん。40年、ろくに口も利かないで、そんな姿を私に見せつけ続けて、やれ友達を作れだの結婚しろだのって、できるわけないじゃん。見本がないんだから。友達とも遊ばない、口も利かないような夫婦の子供として育って、友達作ろうとか、結婚しようとか子供産もうなんて、思えるわけないじゃん」

 一気にまくし立てて、ハッとする。うつむいた、父親と母親の顔を交互に見やり、その痛ましい顔を見て、かえって奈緒の心が傷つく。2人は黙っていて、何も言い返してこない。

 ああ、この人たちは本当に、他人と関わるのが苦手なんだなと、奈緒は哀れにさえ思う。コミュニケーション能力がないから、語彙がないから、喧嘩などしようともしない。そんな弱々しい老人2人を言い負かしても、爽快になど決してならない。
 奈緒の胸いっぱいに、罪悪感が込み上げてくる。

 ずっとこうだったと、奈緒は思う。子供の頃から。奈緒が何かを言うたびに、両親は真意を突かれたとばかりに、傷ついた顔をして黙った。その度に奈緒は後悔し、罪悪感に胸を痛めた。この家では、真相はついてはいけないのだと思った。暴いてはいけない闇があるのだと知った。

 だから奈緒は演じることを選んだ。今では、チョコが負ってくれている役割。いや、今でも、チョコと一緒になって背負っている役割。

 いつまでも子供でいること。中学生になっても高校生になっても、子供用の学習デスクを使い続け、大学生になっても社会人になっても、家に居座り続け、弁当を作ってくれと甘えてみせること。

 自分が家を出て行ったら、学習デスクを捨てたら、しみったれた弁当なんかいらないと言ってしまったら、両親が大事にしているガラス細工みたいな目に見えない何かが、音を立てて粉々に崩れてしまいそうだった。両親を支えている何かが失われ、この家は本当に凍りついて時間が止まってしまいそうだった。

 部屋に戻り、ベッドに大の字に寝転がる。寝転がってから、そう言えば、大の字に寝るのなんて久しぶりだなと奈緒は思う。いつもチョコが足元にまとわりついてくるから、蹴飛ばしてしまわないよう、踏み付けてしまわないよう、気を遣って生活していた。
 寝返りひとつうつのも、チョコを潰してしまわないか不安で、毎日肩こりや腰痛に悩まされながら、奇妙な寝相で寝ていた。思う存分、手足を伸ばし、大の字に寝るのはこんなに気持ちがいいのかと驚いている。

 案外、快適じゃん。不謹慎にも、そんなことを思ってしまう。今頃チョコは、1人で慣れない「学校」でがんばっているというのに、心配する気持ちよりも、チョコがいない生活の快適さに、奈緒は驚いている。

 チョコの安全に気を遣わなくていいことが、こんなにも安楽で、肩の荷が降りたような、重責から逃れられたような気分になれるなんて、思いも寄らなかった。

 バンに乗せられて去っていくチョコを見送ったときも、もちろん、不安と切なさでいっぱいではあったが、心のどこかに、すっきりと爽快な気持ちが隠れていた。

 なぜだろうと、奈緒は思う。がんばってこい、と思ったのか。友達ができるなら、このくらい仕方ない、と思ったのか。チョコがもっと幸せになるための試練だから仕方がないと、思ったのか。

 そうじゃない、と、奈緒は思う。うつむいた両親の横顔を思い出す。もっと残酷なものが、そこにはあったのではないかと、奈緒は気がつく。誰かの代わりを、私はチョコにさせようとしているんじゃないのか。あんな小さな体に、小さな魂に、とてつもなく重いものを負わせようとしているんじゃないか。

 かつて、両親が私にそうしたように。いや、今でも、そうしているように。

 奈緒は急に怖くなって、ベッドから身を起こす。ざわざわと、胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなる。急いでベッドから降り、部屋着からセーターとジーパンに着替える。雑誌の付録でついてきた小さなバッグにスマホだけ投げ入れ、急いで階段を駆け降りる。玄関の小物入れに置いてある車のキーを手に取り、奈緒は家を飛び出した。

 ホームページに書かれた住所をナビに入れ、「犬の学校」へ向かう。国道四号線を北上し、県道に入る。いつの間にか、周囲は田んぼと畑だらけになっている。

 冬の間、石灰がまかれて白くなっていた畑たちも、春になり、緑色の小さな芽に覆われ始めている。まるで、小学校に入学したばかりの1年生のように、小さな芽が行儀良く一列に並んでいる。
 5月になったら、グングン茎を伸ばし、花を咲かせ、夏には大きな実をつけ、秋にはあっけなく枯れるであろう、小さな芽たち。季節は巡る。奈緒の知らないところで、時間は流れ続ける。奈緒はしっかりとハンドルを握りしめ、アクセルを踏む。

 舗装されたコンクリートから、でこぼことした砂利道に変わり、徐々に山の奥へ向かっていく。ホームページには、「広大なドッグラン完備!」と書かれていたが、これだけ山の中にあるのだったら、そりゃあ、ドッグランもあるだろうと奈緒は納得する。

 奈緒はがたがたと車と一緒に上下に揺れながら、こんなでこぼこした道を、知らないバンに乗せられてケージに閉じ込められ登っていったチョコは、さぞかし怖かっただろうと、胸が痛む。モールからの帰り道、母親の膝の上でおしっこを漏らした手のひらサイズのチョコを思い出している。

 「犬の学校」は、看板さえもない、普通の民家だった。どこからが庭でどこからが山かもわからないような場所にポツンと停められたシルバーのハイエースが、朝、見送ったものと同じだと思われて、奈緒はその後ろに乗り入れる。庭には一本だけ、大きな桜の木があり、落ちた花びらが地面をピンク色に染めていた。

 車のドアを開けて、一瞬で、ここが「犬の学校」に違いないと確信する。風に乗ってすさまじい獣臭が漂い、多数の犬の鳴き声が重なり合い、山じゅうに響き渡っていた。

 空にぶつかって反響するように、大型犬の「うおん! うおん!」という野太い声と、小型犬らしき「きゃん! きゃん!」という甲高い声が、競い合うように響いている。吠え続けていれば、市中に住む飼い主にまで届くと信じているような、犬たちの切ない鳴き声。

 中には、「うおーん」と遠吠えをしている子もいる。天に向かって首を伸ばし、めいいっぱい声帯を震わせれば、きっと大好きな「まま」や「ぱぱ」に届くと信じているであろう、どこまでも純粋な魂の叫び声。きゃんきゃんという甲高い声に、チョコの声が混じっているような気がして、奈緒は急いで車から降りる。

「あれ、お迎えですか」

 トレーナーのユニフォームを着た若い男が、民家の脇に立っていた。吸っていたタバコを隠そうともせず、のんびりと尋ねてくる。きりっと上がった眉と細い目は、イケメン風で、奈緒は怖くなって俯く。が、チョコのためにと奮起して、「はい」と声を絞り出す。

「もう、レッスンは終わってるんで」

 男は言いながら、真っ白に汚れた灰皿と思われる筒にタバコを押しつけ、頭をかきながら民家にのろのろと歩いていく。ガラリと横開きになったドアを開けた途端、遠くから響いていた犬の声が眼前に迫ったように、大きくなる。助けが来たとでも言わんばかりに、犬たちは懸命に「ぎゃん! ぎゃん!」と吠え立てる。

 続いて民家に入ろうとした奈緒を、男は手で制する。

「連れてきますから。そこでお待ちください」

 言って、ドアを閉めてしまう。犬の学校なんて、本当なんだろうか。レッスンなんて、本当に行われたんだろうか。民家の横には、柵に囲まれた野原があるが、雑草だらけで、踏まれた形跡もない。これがドッグランだというのだろうか。市中の民家と変わらない柵の高さで、コリーやシェパードなら簡単に飛び越えて、山の中に逃げ出してしまいそうだった。奈緒の胸は、不信感でいっぱいになっていく。

 玄関のドアが開く。男が、

「はい、お疲れ様でした」

 と手渡してきたケージは、まるで何も入っていないように、軽く、物音一つしない。奈緒は恐ろしくなって、慌てて窓からケージを覗き込む。あの日、ペットショップの壁を向いて小さくなっていたのと全く同じ姿勢で、チョコがうずくまっている。ケージの壁の方を向いて、大きく成長したはずの体をボールのように小さく丸めて、こちらを決して見ようとしない。

「チョコ! チョコちゃん!」

 奈緒が必死になって呼びかけると、チョコは初めて、こっちを見る。途端、噛み付かんばかりの勢いで、チョコが吠え始めた。

「ぎゃん! ぎゃん!」

 聞いたことのない、声だった。

「チョコ! まま! ままだよ!」

 奈緒が言っても、チョコは狂ったように吠え続けている。口の端から泡を吹き、白目を剥いて、けたたましく吠え続けている。吠えすぎたのか、その声はしわがれ、空気が漏れるような音を一緒に出している。

「チョコ! ままだよ! どうしてわからないの」

 奈緒は言いながら、気がつく。わからないんじゃない。怒ってるんだ。どうしてこんなところに放り入れたのだと、怒っているんだ。

 ああ、チョコ。私の可愛いチョコ。私の代わりに、私になってくれている、チョコ。

「今日は初日ですから。徐々に慣れていきますよ」

 男は言って、早く帰って欲しいとばかりに貧乏ゆすりをしている。奈緒は無言で、ケージを抱いて逃げるように車に乗り込む。男は見送りもせずに、民家のなかに戻っていく。

 学校なんてなくて良かった。チョコが人間じゃなくて、本当に良かった。

 奈緒は車のドアを閉め、運転席に座ったままケージを抱きしめる。こうやって、連れ去ることができるのだから。明日からもう学校なんて行かなくていいと、言ってやれるのだから。こうやって、明日からまた、あの家で3人と1匹で、コピーされる日常を繰り返すことができるのだから。学校なんかなくて、本当に良かった。

 この子に私の代わりをさせちゃいけない。あいつらみたいに、私は絶対にならない。せめてチョコにだけは、「私」をやらせない。奈緒は誓う。

 ケージを助手席に置き、シートベルトでしっかりと固定する。ケージの闇の中で、チョコの黒い2つの目が、ぴかぴかと光っている。

「ままが守ってあげる」

 その瞳に向かって、奈緒は言う。しっかりと、ハンドルを強く握り直す。

 風が吹き、庭の桜の花が舞い上がる。車のフロントガラスを、桃色の花が埋めていく。

 花に視界が埋もれないように、奈緒はワイパーを何度も動かす。花びらが潰れて、醜い音を立てながら、フロントガラスの隅に追いやられていく。

 奈緒は力強く、アクセルを踏みこんだ。

(了)

2023年5月30日・50枚

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