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言い訳

 頭で分かっていても心がついてこないことがある。だからどこかで気持ちに折り合いをつけて、心の中で何度も言い訳をしていた。言い訳はまるで呪文のように、俺の気持ちを靄で隠していく。そうやって見ないふり、気付かないふりをして、ついてこない心をやり過ごさなきゃいけないと分かっている。

 既に暗くなったオフィスの廊下を歩きながら、俺はまた、心の中で言い訳をした。
『この資料、作ったら共有するって言ってたし。』
手に持った資料を免罪符にして、ドアの小さな窓から灯りが漏れる部屋を一つ一つ覗き込んで、彼女を探していた。二階の端の資料室に彼女が居るのを見つけて、勢いで中に入ったところまでは良かったものの、忙しそうに棚を行ったり来たりする彼女に声をかけるタイミングを失ってしまった。中に入ってしまった手前、引くに引けず、俺は資料を探しに来たふりをして棚の間から少し様子をうかがうことにした。
『丁度探したい資料もあったし。』
手頃な言い訳を思い浮かべて、彼女とたくさん話したい衝動に気付かないふりをした。そのまま彼女の作業が落ち着くのを見計らって、俺はそっと近づき、彼女に声をかけた。
「お疲れ。まだ帰らないんだね。」
「もうちょっと作業が残ってるので。19時までには帰りたいなって思ってますけど。」
顔を上げた彼女はにこっと微笑んで言った。
「旭さんって毎日本当に頑張ってるよね。」
えらいねと褒めようとして、ふと、この言葉を会社の先輩が使うには距離感が近すぎるだろうかと気になってやめた。
「櫻田さんこそ、今日も遅いですね。まだ帰らないんですか?」
「帰る予定だったんだけどね。何だかんだ人に捕まっちゃって、こんな時間になっちゃった。」
俺が答えると、
「本当お疲れ様です。」
彼女は苦笑いしながら言った。
「今平気?」
俺が聞くと、彼女は手をつけていた資料を一旦閉じて、俺の方に体を向けて座り直した。
「そんな大した用事じゃないけど、一応この前の結果をまとめたやつ。」
俺は持ってきた資料を彼女に見せながら言った。
「あぁ、ありがとうございます。うーん、なるほど。これはちょっと考察が難しいですね。」
彼女は資料を手にとって見ながら難しい顔をした。
「そうなんだよね。この辺は予想通りだったけど、こっちの結果がね。」
相槌をうちながら、彼女とペアでプロジェクトを任されていることへの優越感を感じた。仕事のおかげで頻繁に二人きりで話す機会がある。しかし瞬時に頭の中でそれを打ち消すような言い訳をする。
『いや、この気持ちはあくまで仕事のパートナーとして、優秀な後輩とペアになれたことへの優越感だ。ペアが仕事できない人だと俺の負担が増えるし。同期の柴田は死にそうだもんな。』

 しばらく彼女と雑談をしてから席に戻って残りの仕事を片付け、19時前にオフィスを出た。冷たい空気に身をすくめながら駅に向かって歩いていると、後ろから彼女が小走りで追いかけてきた。
「お疲れ様です。櫻田さんが前を歩いてるのに気付いて、走ってきちゃいました。せっかくタイミング一緒になったから、駅までご一緒していいですか?」
追いついて、俺の顔を覗き込みながら聞く彼女を、不覚にもずるい、可愛いと思った。
『彼女の方から誘ってくるのが悪い。』
と言い訳しかけて、いや、彼女を悪く思いたいわけじゃないと思い直す。頷いて彼女に返事をしてから、
『夜道は危ないから、男性が隣に居た方が安全だろう。』
と、心の中で改めて言い訳して、小柄な彼女の歩幅に合わせて少し歩くペースを落とした。
「あー、今日も疲れたー。寒いからラーメン食べたーい。」
彼女は無邪気にそう言って伸びをした。
「確かにあったまりそう。」
と、俺が相槌をうつと、
「櫻田さんは何ラーメンが好きですか?私は味噌かなー。野菜たっぷりみたいなやつ。」
彼女は俺と何気ない会話をしながらスマホを取り出して少し操作した後、すぐにまたカバンにしまった。
「うーん、僕は醤油かな。」
好きなラーメンなんて無難な会話をしながら駅まで歩くと、改札前で彼女に手を振る男性が見えた。
「あ、もう来てる。それでは私はここで。お疲れ様でした。」
彼女は俺の隣にいる時の何倍も嬉しそうな顔をしながら、ぺこりと頭を下げて挨拶すると、その男性の元へ走って行った。俺はにこやかにお疲れと返して、改札に向かって歩きながら、
『彼女が幸せそうで良かった。』
と思った。

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