天使の約束(3)
第三章 再会は運命か偶然か
2024年度創作大賞応募作品
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今年も試験が近づいてきた。前回と違って今回の試験はまあまあ自信がある。去年の12月に受験した短答式も一回目で合格できた。来月の論文試験の一部がダメだったとしても、集中して取り組めば来年は絶対に合格できる。
模擬テストや過去問は大体合格ラインを超えている。乗り越えなくてはいけないことはメンタルの弱さだ。今年は、予想外のことがあったけど大丈夫だろう。
メンタルの弱さが影響するとしたら・・
今春、付き合って一年を迎えた恋人に振られてしまった。
試験に本腰を入れる前に彼女と大切な一日を過ごす予定だったあの日。約束の時間より早めに映画館へ着いた僕は、今日のデートを完璧にすべくまあまあ張り切っていた。
映画の後はcaféで軽いランチ、それから水族館へ行く。夜景が見えるレストランは予約済み。その後は・・・。
おっと、肝心なことを忘れるところだった。チケットを発券しておかなきゃ。
端末の操作を終えると、チケットが取り出し口にペロンと出てきた。さっと千切ってスマホケースのポケットへ入れる。その時スマホに着信があった。茉莉からだ。遅刻の連絡だろうか。
「もしもし、茉莉、どうしたの?」
「ごめん。今日はいけない」
「体調が悪いの?大丈夫?」
「うん、まあ・・。とにかく映画の時間には間に合わない」
「そっか。わかった」
「また後で連絡するね。ほんとごめんなさい」
「いや、いいよ。じゃあ、連絡待っているから」
マジか・・。このチケットどうしよう。映画に間に合わないといっていたけど、その後は大丈夫なのかな。どっちにしろ、時間をつぶさなきゃいけないし、うん、映画は見よう。
さっき、通話中に僕と目が合ったあの女性、一人なのかな。まだ、発券前みたいだけど。いやいや、発券するということは事前にネットで買ったチケットの発券だろ。映画館に来てから作品を選んで発券とかありえない。でも、ダメもとで聞いてみよう。脳内会話を素早く終え声をかけた。
「すみません、お一人ですか?」
僕に声をかけられた女性は、いったい何なんだ??この人・・というような訝しい表情を向けながら一人だと答えた。それからチケットが一枚余っていることを説明して引き取ってもらえないか聞いてみた。
女性は、声をかけられた理由には納得してくれたようだが、まだ怪しいものを見る表情だ。けれどチケットを見せると、表情が変わった。
「じゃ、遠慮なく」
やった・・チケットさんもこれで報われるだろう。いや、チケットに感情なんか無いか。
チケットを渡すと彼女は券面を見て微笑み、化粧室へと去っていった。僕はグッズ売り場で時間をつぶすことにした。映画デートはキャンセルになったので、ドリンクもポップコーンも要らないから売店に並ぶ必要もない。
しばらくして入場開始のアナウンスが始まった。グッズ売り場を出て入場ゲートに向かう途中、あたりを見回したが女性の姿がない。女性用化粧室は混んでいたみたいだから時間がかかっているのだろう。
係員にチケットを見せ、一人で4番シアターに向かい最後尾の真ん中に座る。続々と、人が入ってくる。この映画は人気があるのできっと満席だろう。
しばらくして女性がやってきて僕の隣の席に座ったので、顔を見て軽く会釈した。ほどなくして場内が暗くなり、予告や広告の後本編が始まった。
映画が始まってからも、僕たちの両隣は空席のままだった。隣にいるのが茉莉だったら‥と思う。でも、隣の女性はさっき会ったばかりの知らない人だ。なるべくきちんと真っすぐ座っておこう。
何気に彼女の方を見ると、穏やかな表情で真っすぐスクリーンを見つめている。少し緊張しているのか両手を軽く組んできちんとした姿勢で座っていた。ところで、彼女には恋人はいるのだろうかなどと思ってしまったが、大きなお世話だろう。
映画が終わり、場内が明るくなった。スマホを見るとメッセージが届いていた。茉莉からだった。この後の予定もキャンセルで‥とのことだった。僕はさっと立ち上がり、階段を下りて出口に向かう。女性も僕に続いて階段を下りてくる。
入退場ゲートの手前で女性に声をかけられた。
「今日は映画のチケットを譲ってくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
続いて女性は、コーヒーをご馳走させてくださいと言ってくれた。この後の予定はさっきキャンセルになった。時間がないわけではないし、断る理由もないし。僕は女性の申し出を受けることにした。
アイスのカフェラテを2つ、手にもって女性が戻ってきた。
僕はMサイズで、女性はSサイズ。あ、僕もSサイズにすべきだったかな。でもここのカフェラテ、うまいんだ。だからいつものノリでMサイズをリクエストしてしまったのだ。
タイミングよく空いたベンチに、少し間をあけて二人で座る。
カフェラテを飲みながら、少し女性と話をした。名前は「若葉春陽」というらしい。春そのものみたいな名前なので春に生まれたのかと聞いてみると、若葉さんは10月生まれだと言った。
名前だけの自己紹介から、映画の感想や他愛のない会話をする。彼女が僕に何か質問をした途端、スマホに着信があった。
若葉さんは急いで残りのカフェラテを飲み干し、立ち上がった。お互い早口で言葉を交わした後、着信に対応しながら、空いている手で若葉さんに小さく手を振った。
この不思議な時間と小さなご縁。
いつか、偶然どこかで会ったりするのか・・なんてことはきっとないだろう。でも、もし会う機会があれば今日の話の続きをするのもいいかもしれないな。けど、若葉さんとは、きっと一期一会のご縁なんだろうと思う。
さっきの着信の相手は茉莉ではなく友人からで、これからボーリングに行くから来ないかという誘いだった。気晴らしにちょうどいい用事が出来てありがたい。僕は立ち上がり、待ち合わせ場所へ向かった。
歩きながら僕は、予約していたレストランにキャンセルの電話を入れ、茉莉にメッセージを返した。
「明日、そっち行くから。ちゃんと話そう」
・・◆◇・・
翌日、いつものように茉莉が住むマンションへ行った。いつものように、といってもデートをするためではなくこれからの二人の関係についてキチンと話し合うためだった。
「ごめん、無理かも。智のこと嫌いとかちゃうけど」
「じゃあ、何? 試験のこと?」
「うん・・」
「付き合うとき試験のことはちゃんと説明したよね」
「なんか・・その、関東風の言い方が、きついねん」
「あ、ごめん。なかなか関西弁がうまく話せなくて」
「そうじゃなくて、私、やっぱり関西を離れたくない。だから‥この先、智と付き合って結婚っていうことになっても困るというか・・勇気がない」
「そんな・・」
こういう展開になるのは、デートの約束を急にキャンセルされた瞬間からなんとなくわかっていた。僕が試験勉強に集中する時期に入ったら、あまりデートができなくなる事に彼女は不満だったのだろう。
いったい、これから何年待てばいいの?
とても難しい試験でしょ?本当に受かるの。
何年って、まだ1回落ちただけ。遅くても3回目には必ず合格する。
でも、合格したら横浜に帰るんでしょ?
いや、修業期間があるから試験に合格した後2年はこっちにいるよ。
会計士と名乗れるようになるまでは帰らない。だから、将来のことをちゃんと話し合う時間もあるし・・。
茉莉と話しているうちに、なんだかむなしくなってきた。実際、試験のことを理由にしているが、本当は僕に飽きてしまって、ほかの誰かに気持ちが向いているのだろう。半月ほど前からなんとなく茉莉の態度が以前とは違ってきていたから。
「こっちを離れんでもいい人見つけることにした」
「・・・わかった、終わりだね。僕たち」
「うん。今までありがとうね。元気でね」
どちらかというと円満な別れ話を終えて、僕は彼女のマンションを出た。なんだかな・・という虚しさが残る。関西で育った茉莉と関東で育った僕、どうしても分かり合えないのだろうか。
智の父は会計士で、会計コンサルティング会社を横浜で経営している。大学へ進学してからも就職してからも、父の会社の跡を継ぐ気は全くなかった。気持ちに変化が訪れたのは就職した会社で経理部に配属され、大阪本社の勤務が決まってからだ。
住み慣れた横浜を離れ、経理の仕事を通して、父の仕事の大変さや価値がなんとなくわかり会計士に興味を持った。資格について調べてみると、合格すれば会計士を名乗れるというものではなく実務経験期間が必要であることが分かった。
初めて受けた短答式が不合格だった時、僕は受験に対する本気の覚悟を決めた。
新卒で就職した会社を退職し、時間の融通が利く会計事務所の契約社員で働くことを選んだ。環境を整えるということだけではなく、早めに実務を経験しておいた方がいいと考えたからだ。
さて、と。気持ちを切り替えよう。茉莉とのことは、ちょっと‥いや結構ショックだけど。
気を取り直して分厚い問題集を開いたとき、あの映画館での小さなご縁のことが、ふと智の頭をよぎった。
・・◆◇・・
春陽は映画館で智と出会った日からしばらく後に、所属部署が異動になるという辞令を受けていた。10月からはこれまでの本社勤務から隣の駅の営業所勤務になる。
異動になった営業所の初出勤の日信号を待っていると、後ろか誰かが走ってくる足音がきこえる。
足音の主は若い男性だった。信号待ちの人をかき分け一番先頭まで進んで立ち止まり荒い呼吸をしている。男性の呼吸が落ち着かないうちに信号が変わり、信号待ちの人波も動き出した。男性は、信号が変わると同時にまた走り出した。
遅刻でもしそうなのかな? それとも、体、鍛えてるとか。
あっという間に離れていった男性の後ろ姿をみながら、春陽はゆっくりと歩きだした。男性は春陽が勤めることになった営業所が入っている隣のビルへ入っていった。そこは弁護士事務所や会計事務所が多く入っているビルだ。
異動になった営業所へは、これまでも届けものをしたり研修を受けたりで訪れる機会は何度かあった。そのため、ほとんどのスタッフとは顔見知りで、初出勤といっても緊張はあまりない。
受付で名前を名乗ると、営業部の大森さんが対応してくれた。彼女に座席に案内された後、鞄を置き、デスク周りを確認する。そうしているうちに毎日就業前に行っているという10分感朝礼が始まる時間になった。
若葉さん‥と、手招きされたので、前に出て改めて自己紹介をした。
「本部から来た若葉春陽です。皆さんとは、以前からお仕事上お世話になっていて、今度は同じ場所で働くことができてとても嬉しいです。不慣れな点も多いかと思いますが・・」
「若葉さん、堅苦しい挨拶はええよ。皆、若葉さんの事を知っているし、気楽にやってよ」
新しい上司の宮田さんが場を和ませる。人前でのあいさつは苦手なので助かった。
「はい。では、本日よりどうぞよろしくお願いします!」
春陽は挨拶を締めくくり、スタッフの拍手に促されお辞儀しながら自分の席に戻った。
同じ社内とはいえ、場所が変わると新鮮。だか、体が慣れないうちはこれまでのようにスムーズに仕事ができないかもしれない。迷惑をかけないように、早く新しい部署の仕事に慣れないと。
初日の仕事を終えて、帰る準備をしていると宮田さんに声をかけられた。
「若葉さん。早速やけど、明後日歓迎会する予定やけど、空いてる?」
「はい。仕事のし過ぎで彼氏に逃げられたし。いつでも空いています。皆さんと飲みに行けることが楽しみです」
「ははは。若葉さん、お酒好きやったん?」
「いえ。食べる方がすきで、お酒は食事の一部かな。だからそんなに飲めないです」
「行きたい店とかあるなら、教えてよ。そこの予約取ってみるけど」
「あっ、隣のビルの菜々っていうお店が気になっています」
「あ、菜々ね。今時女子に受けそうな和風の居酒屋やな、わかった。予約しておくわ」
新しい部署は、前の部署と違って和やかな雰囲気だ。残業もほとんどないらしい。
会社を出て、信号を待っていると今朝と同じように後ろから男性が走ってきた。男性が春陽の横に着いた途端信号が変わり、男性はそのまま走り抜けていった。
あの人、朝も走っていた人かな。
帰りも急いでいるのかな。
デートに遅刻しそうだとか。
朝と同じようにゆっくり信号を渡りながら遠く離れていく男性の背中を見送った。
・・◆◇・・
翌日もその翌日の朝も、信号待ちの人をかき分け先頭まで行き急いでいる様子で信号を走って渡る男性のことを、春陽はぼんやりと見つめていた。
二週間ほどたったころ、いつも走っている男性が信号待ちの先頭まで進まずに春陽の横で立ち止まった。今日は走らずに歩いてきたようだ。
何も考えずに横を見ると、男性もこちらを見た。あたりまえだけれど、知らない人だった。
一方、男性は春陽の顔を見て少し驚いたような表情をした。あ・・と軽く口を開き何かを言おうとした時に信号が変わった。男性は前を向き、また走って信号を渡っていった。
なんだろう。私の顔に何かついていたのかな。誰かに似ていたとか・・?まあいいや。
朝のちょっとした変化のことは忘れ、いつもの一日が始まった。今の部署の仕事にも慣れてきたので、今日はまた一つ新しいことを教わった。少し難易度が高そうな業務だったが、この部署では皆が親切に教えてくれる。
残業もなく、幸せな気分で定時を迎え会社を出て信号待ちをしていた。
今日は寄り道して帰ろうかな。この間の歓迎会、菜々、美味しかった。そうだ、これから行ってみようかな。トマトのお浸しだっけ、あれまた食べたい。菜々なら、女性一人でも入りやすいし。
春陽は信号待ちをやめ、隣のビルに向かうことにした。ビルの入り口すぐそばのエレベータホールに着くと、ちょうど到着したエレベータから男性が出てきた。顔を見ると朝によく見かける男性に似ている。
男性と一瞬交わった視線を外し、入れ違いにエレベータに乗り込もうとしたとき男性が大きな声を出した。
「あっ、あの時の!」
「え?」
あの時‥? いつのどんな時? 必死で記憶をたどるが心あたりがない。
「若葉さんですよね。若葉春陽さん!」
「そそ、そうだけど」
「僕、貴田です。貴田智。4月ごろ映画でご一緒した・・」
名前を聞いて思い出した。初対面で一緒に映画を観て、カフェラテを飲んだ人だ。
「偶然ですね。このビルで働いているのですか?」
「いえ、隣のビルで。今月から」
「そうだったんですか!僕はこのビルの10階にある会計事務所で務めているんです」
会計事務所。固い職業の人なのかな。税理士さんとか・・。そういえば、何の仕事をしているのか聞こうとしたときに、貴田さんのスマホが鳴って聞けずじまいだった。
「再会できるなんて、縁があったんですね」
「はあ、そうかもしれないですね」
「これからお食事ですか?」
「はい、菜々に行こうと思って・・」
「じゃあ、一緒に行きませんか? 僕、この後家に帰るだけなんで」
一期一会だと思っていた小さなご縁は、再会に繋がっていたようだと智は思う。これを運命というのかどうかはわからないけれど。幸先がいいような気がした。この間受けた試験も良い結果が届きそうな気がする。
春陽のほうも、智に再会が出来て少し嬉しい気分になった。期限がない約束は、今日果たされるのだと運命で決まっていたのかもしれない。といっても、貴田さんのことは今日まで忘れていたのだけれど。
「じゃあ、ご一緒させてください」
「行きましょう。‥あ~~、お腹空いた」
「ふふふ。私も」
また上の階に行ってしまったエレベータの到着を待つ間、二人は、この前の会話の続きを楽しんだ。
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