身体 ノイズ

朝、仕事のない時は近所のカフェに行く。チェーン店のカフェだ。

そこの店員さんは白いシャツが制服で、私が注文した時女性の店員さん
の素肌の腕が見えた。
その素肌は毛がなくてツルっとしていた。

ノイズがない

と思った。

私は毛深く、基本毛を生やしっぱなしにしている。

私の腕の毛を見た人はそれを「ノイズ」だと感じるだろう。

何にとってのノイズかといえば、「あるべきはずの女性」にとってのノイズなのだと思う。

普通にしていれば生えているはずの毛が、「ノイズ」と感じられる世界に私はいる。

そして、それを私も内面化している。

私が生やしっぱなしにしているのはそういうものへの抵抗というほどの意味はないが、なんで勝手に外で決められたものに私が従わなくてはいけないんだ、という気持ちはある。それでも、夏になると渋々脱毛するので、完全に抵抗できているわけではない。

自分の身体にあるものが「ノイズ」とされる、自分の身体にあるものが
「排除すべきもの」と勝手に外側に規定される。

こういうことが「当たり前」になっているのはおかしいと思う気持ちさえも
理解されないのだろう。

それは、素顔もそうだ。

女性は「美しい」ものでなくてはいけないので、「素顔」で美しい人はそのままでもいいけど、素顔で美しくなければ化粧をしなくてはいけない。

なんでそのままの自分の身体の一部である顔が勝手に規定されなければいけないのか。しかし私はその規定から外れることを恐れ化粧してしまう。

化粧するのは「自分のため」という考え方もあろう。

しかし本当にそうだろうか。たしかに、今の私は化粧をして自分が思う「いいな」という顔になると気分があがる。しかし自分なりの美しさを決めていたとしてもそこに「美しく」いたいという気持ちがあるということには変わらない。

美しくありたいという気持ちはどこからやってきたものなのか?

それはきっと本能ではない。

ほとんどの欲望は社会によって作られたものだ。

でも、それが社会で生きる為に必要な欲望でもあるのだろう。


私は、自分が何によって出来上がっているのかを知るために、社会を知る必要がある。

それくらい、自分のことを知ることは難しいのだ。




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