上書きされる家

昨日、築50年くらいは経ってるであろうお宅に伺う機会があった。

東京から少し離れた埼玉の長閑な街、駅から車で5分くらいの所にある住宅街。街は住宅、雑木林などが主で大きなマンションやスーパーなどは見当たらない。高い建物があまりない、地面の起伏も少ない見通しの良い道が続く。
その街の住宅は、東京に比べ敷地が広く庭のある一戸建てが多い。家の作りから70年代後半〜80年代に作られた家が多そうで、逆に最近建てられたというのがすぐにわかるいわゆる建売住宅というのはそれほど目立たなかった。

私が住んでいる東京郊外、(東京と埼玉の狭間)は畑を潰して分譲住宅が建てられている所が多く、そのほとんどが住宅メーカーが作った建売住宅だ。畑が多い場所なので、地主である農家の大きな家以外は、分譲の小さな建売住宅がメインである。その隙間に手付かずの雑木林があり、武蔵野の雰囲気が残っている。

話は伺ったお家に戻る。
そのお家は、現在の家主のお祖父さんお祖母さん夫婦が建て住んでいた家だったらしい。現在は孫にあたる女性とその家族が住んでいる。
玄関のガラス窓にアイアンで細かい装飾のある格子がつけてあったり、玄関が吹き抜けになっていて風が通り玄関横の小さな中庭から採光できるようになっていたり、部屋と部屋の間の壁のドアにあたる部分にドアがつけられていなくアーチ型にくり抜かれていたり、細部までこだわって作られたのがわかるお宅だった。
部屋の用途によって天井の高さや窓の大きさ(採光具合)が変えられていたりそれぞれの部屋の、一人で過ごす用か家族で過ごす用かという部屋の用途によって作りを変えてあること、部屋をそれぞれ分けていることなどから、その当時の家族構成や家族観も見えてくるようだった。庭には柿の木などが植えられており、庭の敷地に野菜などを育てられるだけの広さがあった。

ここからわかることは、70年代〜80年代の家庭では子どもが複数人いて、家族で過ごす時間というのが重んじられていたので、家族が集合する場所(リビング)とそれぞれが個人で過ごす場所(個室)と明確に分けられていたということだ。

私の実家は東京の23区の西の端に1970年代後半に当時畑だった所を潰してできた分譲地に建てた家だが、このお宅と似ている部分があった。私の両親は建築の美的な部分のこだわりがないので、昨日見たお宅のような美しさはないが、やはり玄関は吹き抜けになっていて、LDK以外の部屋は細かく区切られていた。そして庭があり、庭木が植えられていた。庭がある家、というのは現在のマンションが主流になっている住宅では珍しくなっているし、現代は一戸建てで敷地内にスペースがある場合も駐車場にしていて庭にしている家は少ない。
東京の地価が現在ほど高騰しておらずかつこれから給料が高くなる見込みのあった時代(70年代〜80年代)に建てられた一戸建ては庭がある家が多いような気がする。(統計を見ていないのであくまで私見)
庭という、外でありながら内の領域であるという公共とプライベートの間のような領域、かつそこに私有の自然を持っている、というのはそこに住む人に与える住居と自然というイメージに影響があるような気がする。

現在の建売住宅の間取りの特徴はリビングとダイニングとキッチンがつながっていて、キッチンも区切られておらずカウンターキッチンになっている。これは台所に立つ人(主に母親の役割とされている)もリビングを見渡せるまたは背中越しでも感じられる作りにすることで母親の家事の孤独感がなくなるという部分と食事の支度をしながらでもリビングにいる子どもを見ることができる、というニーズに合わせてできた間取りなんだろう。

そしてリビングダイニングは家族の集合場所というのは変わらないのだけど、リビングとダイニングとキッチンの間に仕切りを作らずそのまま繋げることで全体の狭さが気にならないようにしているのだろう。そして特徴のもう一つはそのリビングダイニングの隣に引き戸でつながっている子ども部屋(又は親の部屋)という想定の部屋がくっついていることだ。これはおよそ5畳〜8畳の間であることが多い。

これは、現在の家庭では子どもの数は1人〜2人のことが多いのでそこを子ども部屋にして、子どもが小さいうちはその部屋とリビングがつながっていることで親の目を届きやすくし、子どもにプライベート空間が必要な年になったら引き戸で閉められるというようにしてあるのだ。
現代の狭い住居の中でいかに広く見せ、せせこましさを感じずに過ごせるようにするかということの一つに「なるべく部屋を仕切らない」というのがある。これは住宅性能が上がり、住宅全体の断熱性が上がったことによって可能になった。
またそれだけでなく、スマホやパソコンの普及により、それらがなかった時代よりも、同じ部屋にいながらそれぞれが個室化して過ごせるようになったからというのもあるだろう。リビングダイニングは家族がみんなで同じことをする場所ではなく、カフェと図書館のような共有スペースという概念に変わったのだろう。

時代によって家族構成も家庭での個人の過ごし方も変わってきて、それに合わせて住宅も変わっていく。
また、時代による家族観の変化というソフト面だけでなく住宅性能というハード面、地価という経済面、住宅政策という制度面など、住宅というのはその時代を映す鏡のようなものであるだけでなく、そこに住む人の思想も見えるものだ。

昨日伺ったお宅は、そこに住む人の大事にしている所が家の作りから伝わってきた。

家に入った最初の共有部分である玄関を開放的にすることで家(内側、プライベート)空間になった時の閉じこもる感じをなくし、むしろ開放的な気持ちにさせる作り、リビングは庭に面していて光が入り、ダイニングとキッチンのキッチン部分には使う人が動きやすい広さがあった。そこも採光がされていて明るかった。風呂場もまた小さな中庭に面していて採光がされていて洗い場も浴槽も広くリラックスできるようになっていた。開放感の欲しい場所やリラックスする場所に意識的に光を使っていたのが印象に残った。

逆に書斎にあたる部屋はそこを使う人の思考に合わせた作りになっていた。天井は家族の共有スペースに比べると低く作りつけの本棚にすぐ手が届くような広さ、採光も障子越しにすることで眩しくないようにしてあった。少し暗く、内側にこもる感じで思考に集中できるようにしたのだろうと思った。

他人の思考が形になった場所に違う思考を持った人が住むという面白さが中古物件にはある。

この住居の場合は祖父母という親族の家だから完全な他人ではないけれど、それでも自分とは違う人間だ。
違う人間の思考を持った家に住むことで現在の家主の思考がその家に上書きされていく。
上書きされていく家は経年変化が単なる自然による劣化だけでなく、そこに住んでいる人の思考の痕跡もどこかに読み取れるのではないか?という期待を持ってしまう。

美しさ、という概念は人によって違うが、日本人においては美しさとクリーンさが同義になっていることが多いような気がする。
クリーンさは、新しければ新しいほどクリーンである。中古よりも新築を好むというのはまさに美しさとクリーンさが同義になっていることだろう。

私が美しいと思うものは、痕跡がある状態である。時間、自然、思考、その人が生きてきたこと、の痕跡は、時間という不可逆的なものが積み重ならないとできないものである。それらを見るとそこに流れた時間や行き過ぎていったものに思いを馳せることができる。そして同時にそれらは重く、自分との関わりを持ってくるものでもある。

昨日伺ったお宅で、今後どのような試みができるかまだ検討中だが、さまざまな痕跡のある住居で、さまざまな人が通りすぎ何かをしていく、というだけでもそこの周囲に変化が起こるだろうと思う。

ウチ、ソト、ヨソという概念の中のヨソ者がウチの領域である地域に混ざり込みそれらの領域を横断すること、どういう方法がよいのかまだ考え中である。


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