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遥か彼方に

 何だか、遠くにいいことがあるような気がした。
 故郷に帰るという彼と一緒に行くって決めた。
 家族は反対したけど、結婚式には来てくれた。

 そして、海に近い丘の上に住むことになった。
 親戚のおばさんが紹介してくれた住宅は、団地の一角、5階建ての建物が三棟、ずれながらも平行に並んでその一番北側だった。一番上の端の部屋。おばさんは笑いながら
「風はひどいと思うけど、日当たりは満点よ」
と言った。この街に来た時から何くれとなく教えてくれて、言外に励ましてくれる。
 景色も満点だった。5階まで階段をのぼる。丘の上といっても、ちょっとしたくぼ地に建った建物で、道路はちょっと上ってそうして下り坂となる。そのはるか向こうに海が見えた。
『いつか歩いて行くんだ』
新しい町ではいつも自分の足で歩くことにしていた。その気持ちが海を目標に置いたのだった。
 仕事に戻るというおばさんに礼を言って送り出したら、彼と二人、がらんとした部屋に取り残された。カーテンもない不思議な部屋。少しひなた臭い透明な風が南から北に抜けた。振り返って南の窓に向かう。その窓からも海が見えた。隣の建物はうまい具合にずれていて、向こう側の景色も見える。
「ああ、建物が切れてるんだ、確かに風が吹き抜けそうだ」
彼は地元だけあって、現実的な心配をした。
 さて、引っ越し荷物は明日くる。今のところ全財産は車に積んできた布団と鍋釜だけだ。暮らすには足らない荷物だけど、5階まで上げるとなったら一仕事。
「やっちゃうか」
「うん」
さっき、上がってくるときにカバンとバケツ、台所の箱は持ってきた。台所の箱はおばさんが気を利かせて持ってくれたもの。残りは布団と雑貨か。彼が使っていた椅子や棚、すぐに使うだろう物を車に積んできていた。1時間ほど往復したら、どうにか終わった。床や壁を一通り拭くことにする。掃除していると我が家になっていく実感がある。

「よし、何か食うか」
「うん」
まずは買い物をしなくてはならない。二人は階段を駆け下りた。
 おばさんの教えてくれた店はすぐわかった。雑貨屋のようなしつらえだったが、店先には野菜が並んでいた。弁当があったので二つ買う。トイレットペーパーや洗剤も買うことができた。
 車のない人はどうするんだろう。彼に言ったら
「実家がある人は実家に泊まるし。そうでなかったらホテルか民宿かなぁ」
と答えた。
 故郷とはいえ、仕事の関係でこの街に決めたので、彼の実家からは遠い。
 新しい暮らしの船出、その日に二人だけで過ごせることの幸せに気付いた。

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