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昔の話

 歴史の会では、ときどき、やり取りがちんぷんかんぷんになることがある。時代が100年くらい違っていると、前提が変っていて、同じ言葉を使っているのに、全く違う中身になっていたりする。

 お茶の話をしていたら、相手が怪訝な顔をした。
 私は、今のお茶畑が昔も変わっていないと思っていたのだが、それが勘違いのもとだった。江戸時代、1700年頃は、畑にお茶を植えてはダメだったそうなのだ。畑はあくまでも穀類を植えるところ。もちろん田なら稲である。畑は輪作するから、ナタネだったり、青菜だったりするのはOKなのだが、木や宿根草を植えてはダメ。幕府は、麦や雑穀を推奨していて、年一度は植えないといけないと指導したみたいだ。
 そしてお茶は、畑の周りに植える。「畦畔茶」というのだそうだ。理由はある。関東ローム層は軽いからからっ風で飛んでしまう。手入れをしている表土が一番肥えた土なので、周りの少し背の高い茂みをうえて、風よけとする。最初は卯の花だったようなのだけど・・・茶の実が売れる茶の木ならなおいいじゃない?という流れだったようだ。
 もちろん、屋敷の周りもOK。畑じゃないから。

 私は、江戸時代も<今の茶畑の姿>だと思っていたので、もちろん出荷もしていると思っていた。お茶が経済作物(花形)になるのは、安政のころ、横浜が開港してからだそうだ。
 ちなみに、サツマイモやサトイモも、名物になるのは明治になってから。
 江戸時代の舟の運賃表に載っていないのも、ムベなるかな、だった。

お茶の花。椿の仲間で、花は下向きに咲く

 上の写真、右上などに茶の実が見えるが、茶の実も集めて出荷していた。
 山裾に住んでいたなら、山の斜面にこっそり植えるのもアリだったようで、平地よりよほど自由が利く。山の斜面は水はけがよかったから、それもお茶の木には◎。

 幕末には畑に植える人も出たようだが、原則、1年以上植えっぱなしのものはダメだったようで、果物栽培もできなかった。もちろん、桑もだめ。メインの畑でなかったら大丈夫だから、ため池の周りとか、道路の両側とか抜け目のない人はがんばっていたみたいで、道路普請の際には「決められた道路幅を越えて植えられていた草本はすべて抜いて、正規の道路に戻した」とのこと・・・全部抜かれてしまったみたいだ。

 明治時代になると、そうした制限が外れ、お茶の木も全面に植え(畦畔茶に対して、本茶園という)られるようになり、村の景観が変ったという。

 お茶は経済作物(商品作物・換金作物)だったが、果物も市場で売れた。
 それで、屋敷の庭や畑の邪魔にならないところに植えて、楽しみ(水菓子として食す)でもあり、売って現金を得たりもしたようだ。

 柿は、米が生らない年には豊作になる、といわれ、救荒作物としても奨励された。農家にはたいてい、柿が植えてあり、女の子がいたら桐の木も定番。風よけを兼ねて木を植えた(屋敷林)。関東なら欅が定番か。腐葉土を作るための落葉樹でもあった。
 柿といえば。渋柿を植えるのが、鳥にやられないコツのようだ。わざとに渋い柿を植えて、人間用には干したりして甘くする。秋も終わりのころには渋柿も甘く、トロトロになるから、鳥が来て食べる。
 農家の人は「鳥に残してやらないと!」といつも言っていた。

 そろそろ、柿も咲くころか。

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