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shampoo

赤信号で車が止まった時、髪を撫でてくれた指先を今でも思い出す。

かつて好きだった人と過ごした時間の半分くらいは車に乗っていたと思う。わたしは免許を持っていないし、助手席のセンスもなかったからあの人には迷惑を掛けたなあと今更のように思い返してみたりする。でも、車の中の時間がとても好きだった。ナビに目的地を入力して、目的地到着予定時刻が表示されるとき、その時間が少しでも先であればいいと願っていた。

あれは夕方のコンビニエンスストアの駐車場でだった。ちょっと休憩、とタバコを吸うあの人の横でわたしはキャラメルラテを飲んでいた。甘くて、少し苦いやつ。何か話をしていたんだっけ。もうあまり思い出せない。ただ、日が落ちた直後の空がひたすらに美しかったことは覚えている。並んで立っていると唐突に「髪、綺麗にしてるんだね」と髪を梳かれた。まるで髪の毛に神経が通っているみたいに、触れられた場所から痺れていくようだった。お世辞を言ったり、嘘をついたりはしない人だと知っていたから尚更どきどきした。「えー、どうだろう」なんて言いながら昨日頑張ってよかった、と心の中で思っていた。

好きな人に会う前の日のお風呂は頑張ってしまう。別に何があるとか期待しているというよりも、少しでも胸を張って会える自分でいたいから。丁寧に体を洗って、丁寧にシャンプーとトリートメントをして、特別な日のためのとっておきのボディスクラブとヘアパックもする。いつもの倍くらいお風呂に時間がかかって、妹に怒られる。でも、このお風呂の時間が好きだ。次の日のことを考えてどきどきしながら入るお風呂。今更大して変わらないよと思う自分もいるけれど、できる限りの手は尽くしたいなんて考えてしまうのは恋に盲目になっているからだろうか。

あの時、好きな人に髪を撫でて「綺麗にしてるんだね」と言ってもらえたわたしは世界で一番幸せな女の子だった。すべてが報われた。ブラシでとかしてから髪を濡らすこと。一度軽く洗ってから丁寧に二度目のシャンプーをすること。水気をよく拭き取ってからトリートメントをすること。面倒くさがらずにしっかりドライヤーで乾かすこと。今までやってきたことのすべてが。

コンビニエンスストアを出てからも、赤信号で止まるたびに髪を撫でられた。そういうことに慣れていないわたしはあの人の方を見れないで、ただ赤いひかりを眺めていた。「青になったよ」と平然を装って伝えることに集中していたけれど、それもお見通しで面白がられていたのが悔しかった。

もうずっと前の話。好きだった人に会うことはこの先きっとない。けれどあの日撫でてくれた髪だったことが嬉しくて、今も同じシャンプーを使っている。

#美しい髪

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