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アル中戦記

はじめましてのみなさま、春香と申します。お金とメンタルの話を得意とします。今日は、アル中について。父を介護して、体験したことをメインにお話します。

兆候と始まり

父は人づきあいが苦手です。上手に言葉を選ぶことが出来ません。コミ障って奴かもしれませんね。ソフトに接することが出来ず、初対面の人にも、結構、横柄に話をしますが、本人にその自覚はありません。

それでも、溶接技師として、技術屋として生きる分には、それほど困難はありませんでした。年上の父を気遣い、部下の人たちは温和に接してくれました。技術屋界隈は腕がものをいう世界であり、人間関係はさほど重要ではなかったようです。多少態度が悪かろうとも、有無を言わせぬ仕事さえすれば、それでオッケーだったのです。

転機は突然やってきました。父が所長に昇進したのです。ただの技術屋なら、上からの注文通りに仕事をすればよかったのですが、所長となると、事務能力やら上との折衝能力やら、今までいらなかったものが必要となったのです。まともに人と話せない父に、務まるわけはありませんでした。

ほどなく、父はアルコールに溺れ、出社拒否、ウツと階段を転げていきました。会社に行きたくないばかりに、担当医には、入院させてくれなければ今すぐ死ぬと言ったそうです。

内科への入院そして再発

希死念慮を受けて、心療内科での入院生活が始まりました。療養生活が主なので、特に治療はありません。おいしいものを食べて(病院食ですが)、夜はゆっくり寝るだけです。ここでアルコールが完全に抜ければよかったのですが、生来、わがままで我慢したことのない父です。自由に動けるのですから、散歩に出れば自販機でビールを買いました。洗濯物の中には、いつもビール缶が紛れ込んでいました。

それでも入院期間の3か月を過ごし、精神的にはすっかり元気を取り戻しました。これで会社へ戻り、所長として、立派に働けると思いますか?

それほど簡単ではありませんよね。大体、原因となるコミ障は、療養で治るものではありません。治ったのは、ウツ状態。これだって、原因となる会社から離れたから薄れたものであって、父の心情が変わったわけでも、我慢強くなったわけでもないのです。そうです。出社するや否や、元通りです。

会社には理由をつけては遅刻、休暇をとり、不安を紛らわせるために、そして暇ですから、家にいる間は酒浸りです。主にビールと日本酒を好み、昼間から熱燗をつけさせました。おつまみがないと酒を飲めない人でしたから、何かしら作らないといけません。おかきやするめなどの乾きものではダメなのです。小鉢が必要な、とことんめんどくさい人でした。

夜はウィスキーを飲みました。夕食にはビール大瓶2本と日本酒の熱燗2合が定番でした。その後、食卓からリビングに場所を変えて、ウィスキーを飲みながらテレビ観戦。やがて、朝からビールに手が伸び、起きている間中、しらふでいる時間がなくなりました。

退職、パチンコ三昧

ほとんど会社へ行かないものですから、会社からは退職勧告をされました。大手の会社でしたので、話し合いの末、早期定年扱いとなり、割増の退職金を頂きました。

クビを勧告されたのに、当の父は大喜び。会社にはいかなくていいし、24時間おおっぴらに酒が飲めるからです。会社からの好意で、簡単なアルバイトを紹介してもらいましたが、かつての部下に送り迎えをしてもらい、仕事中以外は、あいかわらず酒浸りでした。

もともとギャンブルが好きな人でしたので、すぐに日中はパチンコを始めました。行きは母が車で送っていき、帰りはタクシーを使います。やがてタクシーの運転手とトラブルがあり、行きかえりとも母に送り迎えを頼むようになりました。1日3万程度使ったでしょうか。あっという間に、貯蓄はなくなりました。

アルコール性疾患

ほとんど食事をせず、おつまみ程度であとは酒を飲むばかりの生活が続きました。やがて、父はまっすぐに歩けなくなりました。もともと郷土病で、脊髄に軽いウィルス性の疾患を持っていたのですが、アルコールで急激に悪くなったようです。すぐに背中が海老ぞりになり、倒れてしまいます。

アルバイトから帰る途中、部下の方に車から降ろしてもらって、家に帰りつく前に動けなくなり、救急搬送されました。病院に入院しましたが、酒が飲みたくてたまらないのです。医師からは、アルコールが原因だと判断され、お酒を断たないと退院できない、と勧告されましたが、口約束で、お酒を止めると嘘をつき、案の定、帰ってくるなり、元通りのアル中生活となりました。

大病院から紹介されたクリニックで、断酒剤を処方されましたが、すぐに飲まなくなりました。先生にばれるとうるさいので、通院もやめました。アル中生活まっしぐらです。酒が切れると手が震える、飲まずにはいられない、酒を止めさせようとしたら暴言を吐く、暴れる。やがて家族も、酒を注意することを諦めました。

父は、「酒を止めるくらいなら、死んだ方がマシだ!」と怒鳴りました。多くのアル中患者さんは、同じことをいうのではないでしょうか。せっかくアル中を脱して、禁酒に成功しても、薬物と同じで、簡単に断てるものではないんですね。

末期症状

やがて、アルコールで内臓を傷めました。肝臓を傷め、酒が思うように飲めなくなったのです。浴びるように飲んだ酒も、少し飲んだだけで、顔が真っ赤になり、息遣いが荒くなります。はあはあ肩で息をし、

「もういらない・・・」

と、グラス途中で飲み残すことが増えました。このままアルコールが強制的に抜ければ、いい方向にいくかも・・・と思った矢先、

「体中に赤い糸が巻き付いて気持ち悪い!」
「ピアノがテーブルの隙間に入っていった」
「誰かが俺を呼んでる・・・」

幻覚、幻聴が始まりました。そして次の日には、食事が出来なくなりました。もともと酒浸りでおつまみ程度しか食事をしませんでしたが、ほとんど水も飲めません。一口口にしては吐き戻し、やがてトイレへも行かなくなりました。

3日目には慌てて大人用紙おむつを買いました。動かない足の重いこと重いこと。尿がオレンジジュースのような濃い色をしていました。

以前の大病院の先生につないでもらうまでの3日間。父は一睡もしていません。家族も必死で近所の内科で処方された睡眠薬を飲ませて、強制的にでも眠らせようとしますが、吐き戻してしまい、飲むことが出来ません。

「赤い糸が!赤い糸が!」

夜中に叫びます。お隣の方に心配して声をかけられるほどの大声でした。

アルコール専門病院への入院

ようやく週に1度しか来ない主治医につながり、すぐに救急車を手配するように指示されました。行先は病院からの指示を伝えるよう言われていました。

そこは、精神科。アルコール専門病院でした。アル中の治療をするところです。すぐに重い鉄格子の付いた扉の向こう、閉鎖病棟への入院が決まりました。

父の状態は、アルコール性じゅうもうと言い、急にアルコールが抜けたことによる、重い離脱症状です。栄養も水分も睡眠も全くとれていないので、このままでは命の危険があります。

すぐに看護師さんが呼びに来ました。暴れる父が点滴を外してしまうので、拘束の許可を求められました。私たちに断る選択肢はありませんでした。手足はそれぞれ4方向に鎖でベッドの柵につながれ、お腹には太いベルトがまかれています。下半身はおむつだけ。そこから尿管が出ています。毒々しい濃いオレンジ色の尿が少しだけ、パックに入っていました。

「うぉー!うぉー!」

獣のような声で喚いていましたが、睡眠薬が投入され、とろんとしてきました。

3分の1の確率で、このまま正気には戻りませんとの宣告。また、もう3分の1の確率で亡くなりますと。正気に戻り、元の生活ができる確率は、残りの3分の1です、とのことでした。

妹はわーわー泣きました。ここ3日、寝ることのできなかった私と母は、申し訳ないけど、父の心配よりも何よりも、

「やっと安心して眠れる・・・」

としか思いませんでした。父がどうなるか。神のみぞ知る、です。父はずっと言い続けていました。

「酒を止めるくらいなら、俺は死んだ方がマシだ」

自分でその言葉にけじめをつけるべきでしょう。とにかく私たちは疲れ切っていました。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

後日、お見舞いに行くと、父は上機嫌でニコニコしていました。

「あんたさん、どちらさんでっか?」

屈託のない笑顔で聞かれました。

「お父さん、気分よさそうやね」

そういうと、へへっと笑います。相変わらず手足は鎖で四方向に拘束され、腰にも太いベルトがつながれていますが、本人は気にする様子もありません。尿はやっぱり毒々しいオレンジ色でした。父は、お腹にかけられていたタオルケットをくるくると丸めて器用につながれた手足で持ち

「かぼちゃおいしい!かぼちゃおいしい!」

とケタケタ笑っていました。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

1か月ほどたって、開放病棟へ移ったと連絡が来ました。いつものように、着替えなどを持っていくと、鬼の形相で仁王立ちする父がいました。

「誰や!俺をこんなとこに閉じ込めやがって!今すぐ出せ!」

と喚きます。

「あんなぁ、お父さん、死にかけとったんやで」

そう言葉をかけても、全く信用しません。なにせ、酒が飲めなくなってから、つい昨日までの記憶がないのですから。幸せな人です。すぐに看護師さんが来て、父は少しおとなしくなりました。

「はよ出せよ!」

とは言いますが、それ以上は文句を言わず、黙ってベットに横になりました。正気に戻ったのです。相変わらずわがままですが。

それからもう1か月して、「酒は飲みません」と、口だけの約束をして、父は退院しました。

お酒とは縁が切れません

やっぱりというか、そうだろうというか。一番苦しかった時の記憶もなく、ましてや「かぼちゃおいしい!」と遊んでいたことも知らず。どうして閉じ込められたのか、全くわからない父が反省するはずもありません。

家に着くや否や、開口一番

「酒つけえ!(熱燗をつけてくれ)」

です。好きにしろ・・・というのが、家族の心の声です。一応、お酒は飲まないんじゃなかったのと聞いてみますが、

「ボケ!誰が!はよつけんかい!」

とのこと。またもう一度、アル中を一からやり直すのかと思うと、家族は絶望的な思いになりますが、治ったのはアルコール性じゅうもうのみであって、肝臓は良くなっていないのです。

「・・・・・」

すぐに顔が赤くなり、肩で息をするのはそのまま。せっかく大好きなお酒が目の前にあるのに、思ったように飲めず、ぶつぶつ文句を言っています。これは神の采配でしょう。これ以降、浴びるように酒を飲むことが、体質的に不可能になったのです。

相変わらず、顔をしかめて、はあはあ肩で息をしながら、ぜえぜえ酒を飲みますが、ビール1本が限度になりました。えらそうに、

「我慢してやってんのや!飲もうおもたら、なんぼでも飲めるわ!」

とのたまいますが。はあはあ、えらいねぇ、そうですか。

アルコール性認知症

それから、心筋梗塞、脳卒中、胃がんと、3大疾病を一人でクリアしまして、最後に、認知症になりました。アルコール性認知症です。そうです。アルコールだって薬物のようなものですから、脳がやられたのです。

認知症の部類としては、脳血管性の内に入るそうなのですが、血管年齢は90歳を超えており、いつどこが詰まってもおかしくない硬さとのことで、医師からは、一応の覚悟はしておいてください、と宣告されています。

もう、父には苦労させられてきたのでね、今更何にも思いませんが、ここまで来ても、やっぱりお酒は飲んでいますよ。

「お父さん、お酒おいしいの?」

と聞くと、満面の笑みで

「最高じゃ!」

と真っ赤な顔で、ぜえぜえ言いながら答えますので、お酒は死んでもやめられないと思いますよ。まあ、本人の人生ですから、もう家族も何もいいません。どのみち、一日ベッドに寝ているだけの余生なのですから。

<完>

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