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私の受け手理論と漠然とした不安

昨日は一日中受け手について考えたまま、結局まとまらなかった。

でも、きっと、この手の問いは
(緊縛とは、とか何故縛る・縛られるのかとか)
すんなり答えが出ないもんなんだと思うから、正しいプロセスなんだと思う。
#と自分を正当化するw

さて、で、私なりの「受け手とは」について今日はリベンジ。

私はよく緊縛をラーメン屋さんに例える。
世の中にはたくさんのラーメン屋さんがあって、それぞれのお店で店主のそれぞれの想いやこだわりがある。
その中には自分の好みのお店もあるし逆に好きではない味もある。いずれにしてもみんな尊い。

ラーメンやさんでラーメンを食べる時、カウンターなら尚更美味しそうに私は食べる。
(家族と友達が一緒の場合はその人たちに向かって美味しそうに食べる)

嘘をつく必要はないが、レスポンスはエチケットかなって思ってる。
#美味しいなら美味しいって言え

それによって店主が「お客さん美味しそうだな、ラーメン屋やってきて良かったな」って思えば嬉しいし、
一緒に食べてる人が「美味しいし楽しい時間だな、また一緒にご飯食べたいな」って思ってくれれば嬉しい。

私の「レスポンス」にはすべてその精神が通っている。
#多分産まれた時から
#そもそも感度が良すぎるという性質もある

なので、私は「受け」というものに関して誇りを持っているし、これからもそういう生き方をしたいなぁと思っている。

まあ、本当に美味しそうを体現できているかは分からないが、無表情でひたすら麺をすすって、最悪批評だけして帰るような客にはなりたくないな。
#愛のある意見は別


いつも、そこまで思考が回った後,ふと不安になることがある。

果たして私は縛り手とコミュニケーションが取れているのだろうか?
縛り手のことを理解したり、受け入れたり、本当の意味で出来ているのだろうか?

レスポンスいいもんだから、基本は良い人間関係築けるのだけど、
ふと、もっともっと奥のところで不安になることがある。

そして、私のしらない受けの世界はまだまだあるんじゃないかと、思考が止まることがある。

3回以上縛られてる人が現状いないのも、そう思う理由の一つだろうなぁとも思う。やっぱり、深くなるには回数と時間も必要なんだと思う。
今は、とにかく色んなラーメン屋を楽しく渡り歩いてるような状況だからね。

十人十色。それはよい、が、本当の意味?で繋がり合う緊縛ってものを、してみたいかも知れないなぁ。

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