見出し画像

ババ、今までありがとう。


ババ、今までありがとう。

僕のおばあちゃんになってくれてありがとう。
僕に命を繋いでくれてありがとう。


ババがいなければ、今、僕はここに存在していません。

ババがいなければ、今こうして音楽を毎日聴いて楽しむことも、綺麗な景色を見ることも、美味しいものを食べることも何もできていません。

ババはこの世からいなくなってしまったけど、ババから受け継いだこの命を僕はこれからも全力で生きていきたいと思っています。



ババが亡くなった知らせを聞いたのは2022年11月15日の11時45分頃でした。


いつも通り、家で普通に過ごしていると、弟からLINEで「ババが今日の朝、天国に行きました。」と連絡が来ました。


僕はそれを見て、すぐに返事はできず、泣きもせず、驚きもせず、ただただ後悔しました。



最後にババに会ったのはもう数年も前です。
父と弟と車に乗って西東京の山奥の方にある老人ホームに会いに行きました。


そのときに見たババの姿は、すでに相当やせ細っていて、力もなく、声も弱々しく、それ以前に会ったときから見て変わり果てており、「ババももう少しで亡くなってしまいそうだな…」と思いました。


元々は結構ふっくらしているタイプだったからそのときは本当にびっくりしました。



それが2019年の3月のことです。



ババに最後に会ってからの数年間、僕は相当色んな時間を過ごしていました。

「行けなかった」のではなく、「行かなかった」と言われても仕方ありません。
 



あまりにも多くの思い出があるので要約すると…


年号は平成から令和に変わり、世の中は風邪禍に突入しました。


僕自身はと言うと、ほぼ毎日、土日も関係なく仕事の毎日で、使える時間やお金はほとんど音楽活動に使っていました。

最後にババに会ってから今日までのDJの現場数は50本ほど、インターネットにアップロードしたDJミックスの数は80本に登ります。


たくさんの場所に行き、色々な人に会い、色々な美味しいものを食べ、大量の音楽を聴き、レコードもたくさん買いました。


つまり、ババに会おうと思えば、会いに行くための時間もお金もあったわけです…。




最後にババに会ったときの僕は家がなく新宿や渋谷でホームレスをしており、その後東京都の提供する臨時住宅に仮住まいし、その後2つのシェアハウス、そして現在の住まいへと4回引っ越しをしました。



余暇の時間のほとんどは音楽活動などにあて、はたから見れば遊んでいるだけのようでしたが、僕にとって音楽は本気の領域で、さらに生活面では仕事三昧で結構頑張っていました。




その間、ババに会いに行こうと思えばその時間もお金もあったにもかかわらず、自分の人生を生きることに一生懸命でババのことをずっと後回しにしていました。



それでも、最後にババに会ってからずーっとババのことは心の中にありました。




僕が色々な場所に行って、色々な経験を山ほどしているこの数年間の中で、ババはずっとあの山奥の老人ホームの中で、体が不自由で自由に身動きをとることもできず、毎日同じ景色を見て、美味しいものも食べれず、ほとんど誰も会いに来ず、長い長い時間を1人で過ごしているのだと思うと、いつも可哀想だなと思っていたし、会いに行ってあげたいなと思っていました。




今年の8月末に今の家に引っ越すことが決まってから、やることが盛りだくさんだったので、タスクリストをつくって毎日それをチェックしながら生活していたのですが、この数ヶ月、そのリストには「ババに会いに行く」という項目がずーっと書いてありました。

色々とやることがある中で、それらがひと段落したらババに会いに行こうとずっと思っていました。


そうしたら、その途中でババの訃報が届きました。


もうババには二度と会えなくなりました…。





行こうと思えば絶対に行ける数年間でした。




ババが最後を迎えた西東京の山奥の老人ホーム、その前に住んでいた場所、大田区の大森の老人ホームにいた頃はよく会いに行っていたんです。


仕事で品川の方面に行ったときなどは思い出してすぐに行ける距離だったからです。

なので仕事終わりなどによく1人で遊びに行っていました。


そのときはババの大好きな「あずきバー」などを持っていき、何をするわけでもなく、その老人ホームの部屋でダラダラ過ごしたりしていました。



しかし、その後に移転した新しい老人ホームの場所はあまりにも遠く、風邪対策の入館規制も始まっており、交通費の点、行った日の収入がなくなる点、仮に行ったとしても老人ホームのコロナ規制に対してクレームを入れて対面できるように施設に働きかけなければいけない点などいくつも障壁があり、今までのようにやすやす会いに行ける場ではなくなっていました。


そういうこともあり、ババが住んでいる場所は、気合を入れていかなければいけない場所になってしまい、自分の中でしっかり態勢を整えた上でないといけない場になってしまっていました。



すみません。全て言い訳に聞こえてしまいますが、僕は会いには行きたかったけど、気軽に簡単に行ける場所ではなかったんです。



そんな状況で、態勢を整えているうちにババは亡くなってしまいました。




会いに行かなくて本当にごめん。ババ。



会いに行きたかったけど、色々言い訳したり、他のことを優先して会いに行かず、ごめん。


こんなことを言ってももうババには届かないし、絶対に聞こえないんだけど、本当にごめん。






ババがあの老人ホームに入って、一度だけ会いに行ってから、ほぼ毎日ババのことを忘れることはありませんでした。




ババがいつも玄関の靴を揃えるとき、


「靴は船出の方向に揃えるんだよ」と言って、つま先を出口に向けて揃えていたのを毎回思い出して、靴を揃えるたびにババを思い出します。





本当は会いに行きたかったけど、行かなくてごめん。

ほとんど誰も家族も会いに来ない状態で何年も過ごして寂しかったよね。




きっとババが今生きていたらこんな感じで言うと思います。


「やあ、ババ元気?」 

「元気じゃないよ!死んじゃったよ笑 会えないままお天道様にいっちゃったよ。来てほしかったな~。なんで来てくれなかったんだよ!笑 寂しいじゃん笑」


ババは体はヨボヨボになっていた最後だけど、頭はしっかりしてたから、絶対に1人で泣いていたと思います。
寂しくて泣いていたと思います。


人生の最後の数年間にほとんど誰も家族が会いに来ないなんて、なんて悲しかったろうと思います。


僕は行こうと思えば行ってあげることができたのに、行かなくてごめんなさい。

電話もしない、手紙も送らなくてごめん。

できることはあったのに何もしなくて本当にごめん。





ババは、体が動く最後の時期にはビルの掃除のおばちゃんの仕事をしたりしていて、お金がたくさん稼げる人でもなければ、ものすごく学のある人でもなければ、何か1つの分野に長けていた人でもありませんでした。

見た目も、美人でもないし、とりわけ何か秀でた何かを持っていた人ではなかったと思います。




しかし、僕にとってババはとても大きな存在で、完全に無償の愛を注いでくれた数少ない人でした。


僕がどんな見た目だろうと、金がなくても、ホームレスだろうと、大学にも進学せず、まともな職にもついていない、好きでやっている音楽で特に上手くいっているわけでもない、そんなダメダメな僕であっても、なんの条件も求めず、ただただ僕が会い行ったことを喜んでくれる、どんな状態の僕であっても大好きでいてくれる、そんな人でした。


そんな人はきっとこの世界に他にいないです。



完全に無条件に僕のことを好きでいてくれる、今ここにいる僕以上のものを何も求めず、今まさにここにいる僕のことを大喜びしてくれる、そんな人でした。




最後の数年間、会いに行かなくてごめんね。

もうすぐ亡くなってしまうということはうっすらわかっていたのにずっと後回しにしてごめん。

亡くなった知らせを聞いて、全く驚いてはいない。

いつかそうなることはわかっていました。

でも、まだこれから会いに行こうと思っている中で亡くなってしまったことは残念でした。

もっと早く行けば良かった。

行くチャンスならいくらでもあったのだから。

早く行かなくて本当にごめん。





こんなメッセージを送っても、もうババに聞こえることは絶対になくて、実際にはババは孤独の中、悲しみの中、息を引き取ったんだよね…。

88年も続いた長い人生の最後の場面でとても悲しい思いをさせてしまってごめん。

こんなメッセージ、全て偽善でしかない。

生きてるうちにちゃんと伝えられなくて本当にごめん。







ごめんごめん言っていても後味が悪いので最後はありがとうで締めくくりたいと思います。





ババ、僕が会いに行くだけでいつもたくさん喜んでくれてありがとう。

ババのことは忘れたくても忘れられないです。



これからも一生、「靴を船出の方向に揃える」たびにババのことを思い出すでしょう。


これからもババは毎日僕の生活の中に現れます。





天国では、自由な体で思い切り掃除したり、ずっとやりたいと言っていた沖縄の海のダイビングやスカイダイビングを楽しんでください。




ありがとう。ババ。

安らかにお眠りください。




孫1号より。