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いつかやろうと思っていた映画「立喰師列伝」文字起こしが難航している件について 

 何度もDVDを再生して聞き取りながらメモをしながら、スマホでもアプリを使って文字起こししながら一つ一つ文脈を訂正して直す、という作業をやっていたのだが、映画の冒頭の月見の銀次編の途中で僕の体力が尽きてしまったことに対する情けなさや、情熱の甘さ、その他教養の無さが露呈し、いわゆるやる気という言葉に集約されるモチベーションの低下が原因となり、作業が進まずにいることをまずは報告したい。

 あと(上のような)立喰師列伝の語りは、聞き取ることを前提としていないように感じた。”エンテイシンノウ”と聞いて真っ先に炎帝親王を思い浮かべられる人がどれほどいるんだろうか。いや、僕がその域に達しておらずに申し訳なかった、と恥ずかしくなるのと同時に、この映画は意地悪すぎて腹が立ってきた。

 それでも少しずつでも文字起こしをやっていきたい、という前向きな表明と途中経過のメモを残して終わりにしたいと思います。以下は映画の文字起こしです。なにかの参考にならないと思いますが、100年後の少年少女が何かの間違いでこれを見ることを心の底から願っています。

 立喰師列伝文字起こし 月見の銀次編(途中)

月見の銀次がゴトを仕掛けている場面

 あの決定的な敗戦によって東京の街はいたるところ焼け野原となった。
が、その焼け跡こそ路傍に市を開いて交易を教えた炎帝神農を奉ずるものたち、つまりヤシ、テキヤが本領を発揮する場であった。焼け出された商人や失業者の路傍商いがあふれ出し、戦勝国民の露店進出や溢れ愚連隊の反乱、それに伴ういざこざ、喧嘩、暴力沙汰が日常茶飯事となり、この場に集うすべての人々がその本来の姿である流動的で生産物を持たぬ浮浪の民と化して日々の交易に声を枯らし汗と血を流していた。そして、この混沌の中から立喰師の伝説もまた立ち上がるのである。

(音楽🎶)

Hey What are you doing?

銀「月見、そばで」
銀「すまないが、卵を先にのせてくれ」
銀「上から注いじゃもらえないか」
銀「いい景色だ」
店主「くだらねえ、たかが蕎麦じゃねえか」

立喰の世界に関する調査研究の第一人者、犬飼喜一はその著書、”不連続線上の系譜”における月見の銀次の事例研究にあたり、そのゴトの核心とも言える説教にこそ、月見の銀次なる人物の本質が集約的に発現しているとする彼独自の視座を示唆している。その説教とは何か。それこそが異端の民俗学者犬飼喜一がその精力的とも、また無謀とも言えるフィールドワークによって成し遂げた貴重な成果であり、彼らの、いわゆるゴトの中核をなす技術そのものでもあった。

店主「くだらねえ、たかが蕎麦じゃねえか」

たかが蕎麦である。しかも調理した当人がその言葉を口にしているのである。このほとんど絶望的とも言える状況からいかにして銀次は自らのゴトを成し遂げるのか。蕎麦屋のみならずおよそ飲食店においてその終い時、看板側は特殊な時間である。のれんをしまい、翌日の仕込みにかかって店内を清掃する、それはいわば客との対話を終えて独白へと移行する時の結節点であり、生活者の誰しもが経験する孤独で内省的な夜の時間、固有時への境界を超える時間でもある。この端境に訪れる客はまた、民俗学のいう"まれびと"として深い印象を刻む可能性が高い。銀次のアプローチもまた同様の心理的感性を付くもので、まずは店主の経営者としての模擬人格の障壁を突破し、合わせて自らの存在を等身大以上に見せるための演出に他ならないが、無論のことそれのみではない。釜不精は蕎麦屋の恥、仕舞時に通された盛り一枚にいかに対処するか、仕舞い時とはその店の営業方針や職人の気構え、やや大仰に表現するなら蕎麦屋の思想が問われる時刻でもある。狙ったようにこの時刻に姿を現す銀次が、このことを知らぬはずがなかった。そして今一つ、元来が江戸期に大衆の食べ物として完成をみたと言われる蕎麦はその普及の過程で、寺院との関わりが深く霞吸い、松葉を喰む類の料理であり、山寺にいて味わう心境を重んじる、要するに景色を思い描く絵画の心がけこそが肝心である、と当時としてはまさに噴飯ものの説教をあえて闇市という欲望自然主義の総本山において行ったとは、後の世の人々にはおおよそ信じ難い行為であろう。だが事実として、銀次はその困難を敢行したのである。混ぜ物だらけの代用品の世界であればこそ、その代用品で可能な景色を求めて。

店主「くだらねぇ、たかが蕎麦じゃねえか」

たしかに、たかが蕎麦だ。

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