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『子午線の祀り』が描く命運の潮目と天の非常

 今日の午後、世田谷パブリックシアターで木下順二作の舞台『子午線の祀り』を見てきました。「平家物語」に材をとり、“天”の視点から平知盛や源義経をはじめ、源平合戦に関わった登場人物たちを躍動感をもって描き出した壮大な歴史絵巻であり、群読劇です。セリフだけではなくて、舞台上の役者たちがギリシャ悲劇のコロスのように語るのです。

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野村萬斎・若村麻由美・成河キャストはベストキャスト

 初演は1979年で、それ以来、何度か再演されているのですが、不思議とご縁がありませんでした。初演は萬斎の父・野村万作が義経を演じられたそうです。今回、野村萬斎の新中納言知盛、若村麻由美の影身の内待/現代の女、成河の九郎判官義経というキャストを見て、「これがベストだ!」と即チケット購入を決めました。

 そのほか、キャストは河原崎國太郎(大臣殿宗盛)、吉見一豊(梶原平三景時)、村田雄浩(阿波民部重能)と、舞台俳優として実力のある人たちばかり。木下順二は東京大学英文科でシェイクスピアを専攻した劇作家ですから、日本を舞台にした昨日でもスケールが大きく、セリフが膨大かつ朗読が平家物語と同じ昔の言葉だったりするので、舞台の訓練を積んだ役者でなければ歯の立たない作品です。

2011年版は上演時間短縮・出演者減らしたコロナバージョン

 2021年版はコロナ禍ということもあり、演出も兼ねる野村萬斎が本来4時間の戯曲を2時間半にカットし、出演者も31人から17人に減らしたそうです。31人バージョンを見ていないので比較はできませんが、一人ひとりの心理が丁寧かつ鮮明に描かれていました。

 主役は新中納言知盛です。「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」とわが身に鎧二領着て、壇の浦の水底深く入水したと言われる知盛の、その境地に至るまでの経緯が描かれます。

 同時に敵対する源氏側の陣営も登場します。戦の天才ではあっても政の駆け引きが苦手で、「戦場でしか生きることが出来ない」大将・義経に既にこの時点で悲劇の影が忍び寄ります。それを個人的には天才と思っている成河が命がけで演じるのですから堪りません。義経の孤独が知盛以上に胸に迫りました。

命運を支配するのは人間の力では動かせない「月の力」

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 舞台は次のような萬斎の朗読で始まり、それが舞台上の若村麻由美に引き継がれます。

晴れた夜空を見上げると、
無数の星々をちりばめた真っ暗な天球が、
あなたを中心に広々とドームのようにひろがっている。
ドームのような天球の半径は無限に大きく、
あなたの見えるどの星までの距離よりも天球の半径は大きい。

地球の中心から伸びる一本の直線が、
地表の一点に立って空を見上げるあなたの足の裏から頭へ突き抜けて
どこまでもどこまでも延びて行き、
無限のかなたで天球を貫く一点、天の頂き、天頂。
(中略)
大空に跨って目には見えぬその天の子午線が虚空に描く大円を
三八万四四〇〇キロのかなたに、角速度毎時一四度三〇分で
月がいま通過するとき月の引力は、
あなたの足の裏がいま踏む地表に最も強く作用する。

そのときの足の裏の踏む地表がもし海面であれば、
あたりの水はその地点へ向かって引き寄せられやがて盛り上がり、
やがてみなぎりわたって満々とひろがりひろがる満ち潮の海面に、
あなたはすっくと立っている。

 壇の浦で平氏が滅びると知っている現代の私たちは、ともすれば平氏は貴族化したからダメになったのだとか、運悪く潮目が変わったから負けてしまったのだろうと考えがちですが、『子午線の祀り』を見ていると、そうとは言えないことがわかります。

 知盛は百日もの間、壇の浦の戦いの準備をし、八〇〇艘もの船を集めて入念な修練を重ねていました。彼も壇の浦には一日に二回、西と東に流れる潮があることはわかっていました。その潮を最も有利に使って、約一時間の間に一気に勝負を決しようと考えていたのです。

 一方、義経の考えも同じで、約一時間、平氏の攻撃を防ぐことが出来れば、潮目が変わって源氏が勝てると考えていました。ただ、義経がより周到に人材登用や工作を含めた準備をしたことは確かです。ただ、そのために兄頼朝にしか権限がないはずの「御家人に登用」という餌を勝手に乱発したことが、後に仇となるのですが、義経にとって生きるとは「戦に勝つこと」なのです。その為には平家側の船の漕ぎ手を殺するという掟破りすらやってのけます。

 それでも、人間の力では動かすことの出来ない「潮の力」イコール「月の力」が義経に味方しなければ、源氏の大軍の方が壇の浦の藻屑となっていたかもしれません。その可能性も大いにありました。平氏は伝統的に海戦を得意としており、坂東武者の源氏に海戦の経験はなかったのですから。

舞台に人間には聴こえない「天球の音楽」が流れていた

 若村麻由美が演じる影身の内待は厳島神社の巫女で密かに知盛を慕っている女性です。知盛は彼女を密使として京都の後白河法皇のもとへ源平和平の仲介をしてもらうために送ろうとしますが、それをもれ聞いた阿波民部重能によって殺されてしまいます。ですが、影身はその名の通り、殺されても影のように知盛に寄り添い、壇の浦の合戦の前日にこう語るのです。

非情なものに、新中納言さま、どうぞしかと目をお据え下さいませ。
非情にめぐって行く天ゆえにこそわたくしどもたまゆらの人間たち、
きらめく星を見つめて思いを深めることも、みずから慰め、力づけ、
生きる命の重さを知ることもできるのではございませんか。

 知盛はこの言葉を聞き、潜在意識の中で平氏や自分の命運を予感しつつ、海に乗り出すのです。彼が語った「見るべき程の事」とは、悠久の時の中で、ほんの一瞬の命であっても、自分を含め、それを燃やして歴史の一コマとなっていった人々の生き様であったのかもしれません。入水する前の知盛には、もう喜びや哀しみ、怒りといった感情はなかったように思うのです。

 数秘術は数のバイブレーションを生きることで「天球の音楽」に耳を傾ける占いです。『子午線の祀り』には、幕開きから最後まで、生身の人間が耳にすることが出来ない「天球の音楽」が流れていたように思います。

 ちなみに、音楽は武満徹、舞台装置は松井るみ。どちらも優れたアートワークでした。



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