複数人で楽しいことをあえて一人で実行するのではなく一人だからこその楽しみを見出すのがソロ充だ

ソロ充とは

ソロ充という言葉をご存知でしょうか。似たような響きをしている言葉でリア充ってやつありますよね。あれはリアルが充実しているってことなのですが、ソロ充はソロが充実しているってことらしいです。詰まる所おひとり様で生活を謳歌しているということらしい。なるほど。では何を隠そう僕はソロ充です。

僕、ソロ充です、と自称してしまうとなんだか自分が充実していることを主張しているようでなんだか小っ恥ずかしい感じがするのだけれど友人に色々聞いて見るとやっぱりそうらしいんで客観評価込みってことでね、そういうことにしてください。

ソロ充とぼっちの違い

よく似ている言葉としてひとりぼっちの前半部分をよいしょってした言葉にぼっちってのがあります。この言葉なんだか迫害の香りがして書くのもあんま好きじゃないんですけどここの違いはなんだって話ですよね。どっちも一人で行動しているということが観察される分には全く変わりないんですね。例えば僕は大学の学食で一人でご飯を食べまくりますけど(頻度・量共に)わりかし豊かな時間だと個人的には思っております。でも一方で肩身の狭い思いをしてそそくさと端っこで逃げるようにご飯をかっこむ人もいると。

ある他の人が思うところでは、一人でご飯を学食で過ごすことはなんだか悲しいことらしい。(たとえご飯におくらの巣篭もり卵を乗っけたものに味噌汁をつけて食べるときでもだ!)

え、そうなの????なんでなん????って僕は思いますが、人というものは他の人の意見をどうしても気にしてしまうもの。特に島国である日本は他者と同調することを良しとする文化として馴染みまくってしまっているわけで、なんだか後ろめたい気すらするわけですね。目の前の卵を箸で崩して黄身のトロッとしたところに醤油を絶妙な加減でもたらすことができたとしてもです。あ、一人で学食ってなんだか悲しいことなんだと。

さてここで起こっていることをもう少し深掘りして考えてみましょう

迫害する側の心理

人というものは優越感を感じたい。それは僕ら人間の根源的な欲求であって、数的有利である状況を誇示することで弱者と強者の構造に身を置き、弱者に対して牽制をしたいという気持ちです。(学食で胸を張ってS定食ご飯大盛りを注文し、肩で風を切って友人とともに眺めの良い席に陣取ることができる)


では、そのような欲求はどこから来たか。

人間は狩猟民族から農耕民族に移行したときに、階級構造のある村が発生しました。まあなぜかっていうと、お米がお肉と違って年を通じて貯蓄可能かつ季節で採取するものなので財産としての価値が出てきたと。そんで持てるものと、持てないものの差が発生しました。いわゆる資本家(の先駆けのような)が生まれです。


農耕民族になる前は、もっと集団の単位は少なく、それなりの洞穴に住んでていいくらいのサイズでした。なんでイノシシとかとって食ったりしてれば別に良かったわけですね。
しかし村になってからは、お米をみんなで作って分配するという仕組みになりました。効率化のための人数が増えます。そんで誰が分配するかっていうと村長さんなわけです。で、権力を持つ人と持たざる人の構造ができる。そんで、村の掟を破るものにはお米が分配されなくなる。掟破りイズデッドというわけです。

なんかとんでもなく昔のお話になりましたが、まあ何が言いたいかっていうと生粋の農耕民族である我々日本人は群れるように生きてきたわけで、その価値観がこびれついちまってるわけです。大きいものに巻かれる。偉いものに従うことそれすなわち生きるための術だった。

個で生きる強さ

現代の日本の中ではまだ集団であることの規模の経済で勝つ、垂直統合型の企業がまだまだ多いです。そんな中で育まれる価値観ってのは、長いものにくるんくるんに巻かれる精神だ。そうじゃないと、個人としても集団としても生きていけないからですね。そういう仕組みになっている。

ソロ充は狩猟民族マインドを思い出した人間だ

ソロ充は一人で生きる強さを持っている、と思います、拡大解釈をしてしまうと。ソロで充実できるっていうのは、一人でいて楽しいという性格の部分ももちろんあると思うのだけれど一番は楽しいの基準が自分の絶対的なところを持っているというところだと思います。インスタに乗っけて周りのきらびやかな写真と比べて楽しさを確認する相対的な楽しさを感じることとは違う楽しいの基準が自分の中にある。

おひとりさまを謳歌しよう

別に一人で生きなさいってことを言いたいんじゃなくってですね、自分基準での楽しいことを見出して愛でることをしましょうということをオススメしたいんです。

僕は一人でいる時間が好きだけどみんなと楽しくいる時間ももちろん好きです。でもおひとりでいる時間があってこそのみんなと過ごす時間だと思うんです。それぞれが価値観を持っていて、一緒に集うことで生まれる楽しさを感じていたい。

そして群れの中にいる方の自分にアイデンティティを感じるんじゃなくって、一人でいる自分にアイデンティティを感じて欲しい。特にぼっちであることを怖がるような人にこそ。

これから個の力が試される時代がやって来ます。垂直統合型の企業はだんだんと減り、それに応じて、分散型の社会で企業、個人それぞれが特色を期待されるようになってきます。狩猟型社会に戻るわけですね。その時代の中で必要とされるのは、村八分から身を守る処世術ではなくって、自分独自のカラー、世界観です。
みんなで楽しいこと一人でも楽しむんじゃなくって、ひとりだからこそ、自分だからこそ好きな時間を見出したい。例えばみんなで楽しいカラオケを一人で乗り込んで、それを友達に話して笑い話にすることで楽しいと感じるようなことをするんじゃなくってですね、一人でカラオケしたら、ソファに仰向けで寝ながら歌えるとか、コーンポタージュを静かにすする楽しみとかですね、ひとりだったから見つかった楽しみの方にですね是が非でも目を向けて欲しい。

おひとりさまの時間で自分持つ価値観を見つけましょう。こんなものが好きだったのか。こんな場所が好きだったのかとか。

そして見つけた価値観にじっくりと時間をかけて向き合って、愛でること。それが人生の最も美しいもののうちの一つだと思うわけです。

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