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男女の立場が逆転したら?フィクションの思考実験


6, 7月と2か月にかけ『SNS/少女たちの10日間』と『プロミシング・ヤング・ウーマン』という、性加害をテーマにした映画を観た。ジェンダー不平等では男性だって苦しんでいる。うん、それは分かる。男女で括るは乱暴、それも分かっている。でも圧倒的に「男女」の力の違いがあるということを見せられたのが上の2作だった。暴力は立場の違いを利用するのだ、ということがよく分かる2作だ。この「立場の差」はあまり「男性」に伝わっていない気がする。夜道を歩くことが怖い、ただそれを言っただけでもあまりピンときていない表情が浮かぶのだ。
この力関係の差はくっきりと見せるのが、男女の立場を逆転したフィクション。ドキュメンタリーも素晴らしいけれど、現実には起こり得なさそうなことを書けてしまうのがフィクションの良いところ。

『パワー』ナオミ・オルダーマン 安原和見訳

ナオミ・オルダーマン『パワー』では、電流という「パワー」を持った女性たちが、世界を覇権していく。10代の女性が電流を放出できるようになり、彼女たちに教えられ他の世代もどんどん「パワー」に目覚め始める。男に殺された母の敵討ちを誓う少女、性暴力をふるう里親から逃げた少女、知事の座を狙う市長.....。
『パワー』では男女間の力関係が逆転していく様が詳しく描かれる。最初は命も簡単に奪える「電流」の力により、女性が物理的に力を持っていく様子。各地で女性の怒りが爆発し、革命が起こる。理想的な世界だろうか?もちろんそんなはずはない。女性だって「人間だ」。母なる愛だけでできてるわけじゃない。

激化していくにつれ、法律が変わり、男性たちは女性の保護がなければ自由に行動できなくなる(この法律が急に変わるあたり『侍女の物語』の怖さを思い出す)。男性は弱いのだから。こうして、「家母長制」が出来上がっていく。この流れもとても引き込まれるが、細かい部分の描写が巧みだ。例えば終盤、知事として力を持ったある女性が、自分より立場が下の男性にセクハラをするシーンが「さりげなく」描かれる。男性は、立場が上の彼女に対して抵抗できない。電流から始まった「パワー」が権力に変わっていくのだ。最初は今までの抑圧から解放されたかっただけなのに、自分たちの力を誇示したくなっていく。男女の力関係が逆転した世界だってやっぱりディストピアだ。

また、『パワー』は作家のニールが歴史を検証し書いた本で、ナオミという女性に送ったものだということになっている。この2人のやり取りも含めて「ジェンダー非対称性」が鮮やかに描かれている。なにせ2人がやり取りする「現代」では、「女性は子どもを守るために攻撃的になり、男性は家庭のため労働者になった」という俗説がすっかり浸透しているのだ......。男性はかつて狩りをしていたから云々という説は、本当に都合よく作られたのだと分かる。


『Oppressed Majority』/『軽い男じゃないのよ』Éléonore Pourriat


短編映画『Oppressed Majority』(英題)とこれを基にしたネットフリックス映画『軽い男じゃないのよ』では、主人公の男性が「女性優位の世界」に入り込んでしまう。会社では見下され、家事の負担はのしかかり、道ばたでは口笛を吹かれる。この映画も差別の描き方が細かい。日常に性差別的な言動が溢れていると気が付く。
彼は「元の世界」に戻れるのか?というところがポイントだ。ラストはほんとうに、お見事。


『パワー』『軽い男じゃないのよ』が描く世界は、反転すれば女性が今置かれている状況だ。『パワー』は凄惨な暴力場面もあり、読んでいてぞっとすると思う。でもこれは女性に起こっていること、というのが一番哀しい。男女逆転すれば「おかしい」となるのに、現実では「気にしすぎ」と言われるから。

たまに、フェミニズムを「女性優位な世界をつくること」だと誤解している人がいる。そうではなく、「平等」を言い続けているのはなぜか、『パワー』『軽い男じゃないのよ』から分かると思う。


『Oppressed Majority』はYouTubeで公開されています。


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