まっすぐでない時間軸——クィア・テンポラリティから
「クィア・テンポラリティ」という言葉を知りました。
「結婚・出産」を前提とした、異性愛規範の強いまっすぐな時間軸ではない時間や、過去、現在、未来は別物(そして未来は生まれてくる子供たちのもの)という考え方とは違う時間、歴史を考えようという考え方だそうです。国際基督教大学のジェンダー研究センター主催の講演会「時を超えて触れ合うこと」では、この「クィア・テンポラリティ」を軸にキリスト教とクィアについて語られました。
講演者の安田真由子さんによると、例えば「成長し結婚し家庭をもつ」、という時間の考え方にはロマンティック・ラブ・イデオロギーが含まれているし、割り当てられた性と性自認が違う人(トランスジェンダーやノンバイナリー)は社会制度により様々な困難を経験する(させられる)ので、それはシスジェンダーの人の感じる時間とは違うものになるということでした。大学を卒業し就職するのが一般的とされる時間軸だとしたら、そもそも差別で学業や就職がスムーズにいかない場合もあるのです(もちろん学業、就職と進む必要はないけれど、したくてもできないという状況があるのは差別ですよね)。
これは私も日々感じるというか、私は自分の性的指向を特定の言葉に当てはめることはしないのですが、好きになるのは異性だけではないし、かつ、一人の人とパートナーになることと、いわゆる「性的関係」をもつことを全く望んでいない・必要としていません。だから、「結婚・出産」が当たり前とされることにとても違和感を覚えます。さらには「いい人が見つかる(見つかれば変わる)」と言われれば、「いい人」が登場する未来のあるタイムラインに乗せられているようで、暴力的な言い方にすら思えます。だから、今言われる「時間」が成長・結婚・出産がかなり限定的な「時間」というのは納得です。
「クィア・テンポラリティ」、すごく興味深い! そして私が感じている「真っ直ぐでない時間」はこの考え方でより深く説明できるのではないか、と思いました。前のnoteに書いたように、私の時間は線というより点だからです。それは「まっすぐな時間」とは違うでしょう。私は診断されたわけではないので自分は非定型発達なのか、というのは憶測なのですが……。でも、定型発達の人と非定型発達の人が感じる時間は違うのではないでしょうか。
「クィア・テンポラリティ」はジェンダークィア、LGBTQに加え、色々な考え方に接続できると考えています。この視点から時間を考えると、全然違うものが見えてくるように思いました。締め切りと分刻みのスケジュールの社会で、例えば申請期限を守るのが苦手な人がいたとして、それはその人の自己責任なのでしょうか?本当は人によってかなり違う時間軸をすり合わせているはずが、いつの間にか「普通の時間軸」というものができているのではないか(まあ、締め切りがないと多くのことは動かないと思いますが)。
あるいは、トラウマを抱えた人が数年後に事件を訴えたとして、周りの人が「時効」に思っても、本人には全く終わっていない、客観的に区切れない時間を過ごしているのでは?フラッシュバックが起こるとき、「過去」ではなく何度も「その時」を経験しているのでは。
時間通りに登校する学生としない学生、昼間と夜間、同じ「学生」で同じ学校でも、違う時間を生きているのでは?
…..と、「時間」そのものをゆさぶる考えに思えて惹きつけられたのでした。
そして、過去の人について読むとき、その人が置かれた状況を考えて読み直すことができる、という話も興味深かったです。だから、死者や「過去の人」を「いないもの」として考えるのは違うんじゃないか、と反省しました。死者と時を超えて会うことができて、それは差別や社会を考えるうえですごく大事なことに思いました。過去に起きた差別は「過去のもの」として客観的に捉えるだけではなくて、「今ここ」に接続されている、その人が亡くなっても差別や被害が消えたわけではない。
そういえば最近、「自分は忘れても手が(亡くなった人の手を)覚えている」と言っていた人がいて、ああ、自分がいなくなっても、誰かが(いやでも)覚えているのだから、いなくなったことにはならないんじゃないか、と思ったんですよね。
「クィア・テンポラリティ」で文学を読むのも面白そう。私は森茉莉のエッセイの語り、クィアだと思います。
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