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11月16日のダイ・イン

 犠牲者への哀悼と虐殺や差別への抗議を表し行われるダイ・イン(地面に寝転がり死者を表す)。イスラエル軍によるパレスチナの虐殺への抗議としてダイ・インに参加した。
 パレスチナで虐殺が始まったことを知っても、「自分は今調子が悪いから」とニュースを避けてきた。それでも友人・知人がニュースを翻訳したり、プラカードを作ったり、デモに参加しているのをSNSで見るにつけ、自分はこれでいいのだろうか?と思いはじめた。ニュースでは軍が病院を襲撃したとか、多くの人が亡くなっているといった酷い話が流れてくる。大学で会った留学生の顔が浮かび、あの人はパレスチナから来た人だっけ?とも思った。だとしたら今どんな思いで日本にいるだろう。知人がいないと関心が向かないのも問題だが、外務省前でダイ・インがあると知り行くことにしたのだった。今年に入ってから、「まだよく知らないから」と参加を渋るのはやめ、入管法改悪反対のデモもとりあえず行ってみた。パレスチナのことにもあまりにも無知だが、虐殺は許されてはいけないことだし、まずは足を運ぼうと思った。

 着いたのは始まって10分過ぎくらい。外務省前の歩道にずらっと並んだ人たち。歩道はカラーコーンで仕切られており、警察が見張っている。コーンの内側の空いたスペースを見つけ、とりあえず座り込んだ。「ダイ・イン」をする勇気はなく、ネットプリントで印刷したプラカードを掲げた。前にツイッターで見かけていいなと思った、プラカードで顔を隠す方法をとる。カメラが不安でもプラカードを掲げると安心だ。歩道を行く人たち―霞ヶ関で働いている人たちだろう―にも目に入るはずだ。
 それから立ち上がって何人かのスピーチとコール。私はデモで皆が一律に行動しなくてもよいと思っているので、座ったりコール中も黙ったりしていた。聞こえないときや納得ができないときは言わなかった。でも、大声で「虐殺やめろ」「誰も殺すな」と叫んだ。外務省むけてに声を上げつつ、一方で、職員をただ罵倒することは避けたいと思っていた。デモのコールもスピーチも、もちろん罵倒ではなく、ちゃんとした対応をしてくれと求めるものだった。たぶん職員にも忸怩たる思いでいる人がいる、と信じたい。一人ひとりを考えれば組織のなかで抵抗することは大変で、場合によっては生活を脅かされる。でも私は政府に、いまの状況にはNOと言ってほしい。

 20分ほどしてまた「ダイ・イン」。「ダイ・イン」が始まると、警察が「通行を妨げるのは違反です」と言いに来ることがわかった(ただ注意は「形ばかり」のようで‟本当に”止める気はないように見えた)。そうか、これは注意せねばならぬことなのか。道路で寝てはいけないのか。そうわかると、自分も横になってみようと思った。プラカードは掲げる。
 ダイ・インは静かなのだなと最初は意外に思った。でも「死者」を表しているのだからそれはそうだ。その場に肉体をもった人が「いる」ということが、抗議になるのだと感じた。無言の抗議。大勢の人が横たわっていれば目を向けずにはいられないから、見た目にもインパクトがある。虐殺も殺人もヘイトクライムも死刑も、人を殺していい手段なんてない。そして大「量」殺人として、悼むときもないまま「無名」にして殺害していくのもまた別種の暴力だ。

ここは誰の道

 

 やっぱり警察の「違反です」が気にかかる。道路に寝転がることは「迷惑なこと」だと知らしめたいようだった。日本の文化のなかで大半を過ごした人にとって、「迷惑」とされることは怖いと思う。正直、私はあの場で「ダイ・イン」をすることが怖かった。「注意される!」と身が固くなった。
 でも、誰にとって迷惑なのだろう?「通行の妨げ」なのだろう。「ダイ・イン」でなくても、道に寝転がることはだめなのだろうか?すたすたと歩ける人の邪魔になるから?私は道で寝ている人がいれば、「通行の妨げになる」とは思わない。寝転がりたいと思いながら家まで足を動かしている人が何人もいるだろうに。全員が同じスピードで歩くわけではないのに。これは誰にとっての道?一定のスピードで歩ける人が、滞りなく進むためだけの道じゃないだろう?ここで誰かを排除することも、殺すことに最終的に繋がっているのではないのか。

追記


 「ダイ・イン」やデモに意義があると思う一方で、ではオンラインが劣るかというとそうではないと感じた。東京でアクティビズムに参加すると思い出すのは、自分が生まれた場所のことだ。私が育った田舎では田畑と森が広がり、集まる場所も見る人もおらず、デモはとてもやりにくい。10代のときにSNSをやっていれば、ハッシュタグのデモに参加していただろう。
 それに、確実に写真を撮られるなかで顔を晒してデモに参加するということはなかなかハードルの高いことだ(撮影禁止ゾーンを設けているデモもある)。私が仕事帰りに行ったように、あまり準備せずふらっと行けるものであってほしい。

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