見出し画像

スポーツは嫌いでも読みたいと思ったー『あの夏の正解』

 「スポーツ」がずっと嫌いだった。同調圧力、上下関係、ビジネス界でスポーツを引き合いに出しては精神論を語る人、急にナショナリストになる観客。だからスポーツ観戦はまったくしてこなかった。運動部にも入ったことがない。

『あの夏の正解』は強豪校の野球部に所属する高校生と2020年の夏を追ったノンフィクションだ。「あの夏」とは甲子園が中止になった夏なのだ。スポーツが嫌いなのにこの本を読んでみようと思ったのは、新聞か雑誌に載っていた著者インタビューがきっかけだった。2021年の記事で、著者の早見和真さんは「今年の高校生に「甲子園に行けなかった先輩の思いを背負って」「先輩の分も」と言う大人が多いけれど、高校生はそんなことを背負う必要はない。彼らには彼らの野球がある」というようなことを言っていたのだ。テンプレートのように繰り返し「あの時の先輩の分も」と言われる中で、早見さんの言葉がとてもまっとうに思えた。そんな人が書いた本なら、スポーツでも読みたいと思った。



インタビューとして


 痛いほど誠実な本だった。早見さんは自身が住む愛媛県の済美高校と石川県の星稜高校を行き来し、「甲子園中止」発表後の監督、部長、部員への取材を何度も行う。「コロナに青春を奪われた10代」のように括られがちな一人ひとりに敢えて厳しい質問も含めぶつけていく。とても細かくて真摯だ。さらにその厳しさは、自分自身にも向けられている。

当時は「ふざけるな」「なんの意味があるんだよ」と仲間たちと一緒に指導者に毒づいていたはずの練習が、不思議となつかしい記憶として刻まされている。そんなものただのノスタルジーだ。自分の過去を美化しているだけ。いつか中矢にぶつけた意見がブーメランのように自分に返ってくる。それに即座に言い返す言葉は見つからないし、正しいことだと開き直るつもりもない。しかし、少なくとも当時の僕らがもし部外者に裸足のランニングを批判されたら、たとえその刃が監督に向かっていたとしても、「放っておいてくれ」と言い返したに違いない。その意味では、当時から「苦しさ」や「無意味さ」に内包される「楽しさ」の存在に気づいていた。(p.161)

 「理不尽」に見える練習風景を見て書かれたものだ。ここを読んだとき、部活と運動部の「理不尽さ」と部員の間にある複雑性が少し見えた。外から見ている私だから分かることと、外から見ている私には分からない両方の側面があるのだろうか?私には「精神論」に感じられるし、命に関わる練習法は問題だと思う。ただ、著者が「ノスタルジー」を感じる自分と葛藤をそのまま書いているところが凄いと思った。私なら取材相手には厳しい言葉をぶつけても、自分の感じたことはこんな風に書けないと思う。書かずにいた方が自分が良く見えるからだ。複雑なことを複雑なまま書くと、自分が認めたくないことも含まれてしまう。でも、そう書けるからここまで追い続けることができたのだろうなと思う。「客観的」に上から見ているほど遠い視点ではなく、でも生徒と監督に一定の遠慮と尊敬があり、自分の揺れも含めて書く。以前、ソ連の遭難事故を追ったドニー・アイカー『死に山』を読んだときも似たことを感じた。やっぱり野球は難しくてよく分からないままだったけれど、インタビューとして面白い本だった。私もこうやって人の話を聞いたり書いたりできるようになりたい。私にインタビューする機会なんてないけれど。


記録として

 2020年、留学が中断されてくすぶっていた私は、正直甲子園のことなんて全く考えていなかった。「あの夏」、全く違う経験をして違うことを感じていた人がいるのだ。左右社の『仕事本』や日記、それにこの本など「コロナ」のさなか本当に沢山の本が出た。どれも2020年にそれぞれの立場から感じていた「記録」だ。時々、あとから「2020年代の人は大変だったね」と言われるのかもしれないなと思う。後の時代からなら、いくらでも整理し意味付けをして語れるだろう。それは羨ましいけれど、今生きているのだから、黙々と記録するしかないのかもしれない。

 本の最後に載っていた部員へのインタビューで、「自分には高校を卒業したあと、自立して働いて、という計画がある」と話している人がいた。周りから何を言われても、この人が自分の正解、というか落としどころを見つけて打ち込んだことは奪えないしなくならないだろうと思った。だから、後輩たちがどんな思いで部活を続けるかは、また別の世代の話。あの著者のインタビューをきっかけに、「2020年の夏」の記録として2つの高校を書いたこの本を読めて良かった。自分には縁がないと思っていたスポーツも「何か見てみようかな」と感じ始めている。

『あの夏の正解』
早見和真 新潮社 2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?