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言わないでくれてありがとう

#君のことばに救われた

その言葉はシンプルだった。「いいよ」一言だけ。本来「大人」が言いそうなたくさんの言葉を言わないでくれて、そのかわり「いいよ」とだけ言ってくれた。

東日本大震災があった時、私は小学生で、今まで経験したことがない出来事に戸惑っていた。私の住んでいた地域は被害を受けなかったけれど、とんでもないことが起こったのだとテレビを見て知った。

「節電をしましょう」と色んなところが呼びかけていた。節電が必要なことは分かっていたけれど、何か足りない気がして、何かしなければいけない気がして、私は焦っていた。その時の考えの及ばない頭で思いついた唯一の方法が、募金だった。

私は友人何人かに声をかけて募金活動をすることにした。募金活動なんてしたことなかったけれど、考えれば何が必要かは思いつくものだった。まずは、お金を扱うにしては大人の手助けがいると思い、友人のアイディアで役場に電話をした。

返ってきた答えは大変協力的だった。

「『募金なんてやらない方がいいんじゃないか』だって」。
 電話をかけてくれた友人は不満そうな顔で受話器を置いた。遠回しの拒否だった。「自分たちは協力できない」と言うのではなく「君たちがやめろ」という形で。

 次にお願いしたのが、担任だったI先生だ。
先生は、誰かの権利が侵害されたり、差別されたりすることに敏感な人だった(と、過去形で書いてしまったけれど今もそうだと思います)。私が小学生のとき、流行っていたある遊びで差別用語が使われていたのだけれど、それを指摘したのはI先生だった。ただの用語だと思っていたものが差別用語だったとは知らなくて、驚いた私はそのあと一切その言葉を使わなかった。誰かを傷つけるものは意外とすぐ近くに潜んでいることはこの時意識したと思う。

そういう先生だったから、手伝ってくれると私たちも分かっていたのかもしれない。「いいよ」と言ってもらえ、その後の募金箱造りや場所決めなど準備はスムーズに進んでいった。募金活動のため場所を貸してほしい、とスーパーにお願いに行くときも一緒に来てくれたし、その後役場へ連絡してくれたのも確か先生だった。
募金はもちろん土日にやるしかなかったのだけれど、当たり前のように朝から来てくれた。スーパーも協力してくれ、当日には「小学生が募金活動をしているので是非ご協力お願いします」というアナウンスまで流してくれた。

全てが、今となっては信じられないくらい順調だった。実は、当時私はたいして気が付いていなかったのだけれど、周りの大人が協力してくれたのはすごいことだったと今では思う。
 私は、募金のことを誰かに褒めて欲しいとも思わなかったし、無駄だとも偽善的だとも、恥ずかしいとも感じなかった。自分にできることの手段が募金だっただけで、やった自分にどんな影響があるかなんてどうでも良かった。多分私は小学生だったから、責任とか世間体を考えなかったのかもしれない。今の私が、その時の先生やスーパーの人と同じことができるだろうか、なんて考えたりする。私たちを手伝ったからといって、先生にもスーパーにもいわゆる「利益」はないし、むしろ土日にわざわざ関わるなんて面倒だと思うかもしれない。

 今、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんが起こしているアクションが議論を呼んでいるー議論というよりは理不尽な非難だけれどーらしい。「子どもは学校に行け」とか「無意味」だとか言う「大人」がいる。日本でも、デモに参加した学生が非難を浴びている。

 ただちょっと募金活動をしただけの自分を、グレタ・トゥーンベリさんやその他アクションを起こしてる若い人たちと並べる気は全くない。
けれど、あの時「そんなことしなくていい」「勉強してろ」と言われなくて良かったと思う。募金で集まった金額はそんなに多くはなく、誰かを助けられたといっても微々たるものだったかもしれないけれど。

話を聞いてくれる大人に会えて良かった。ただ一言「いいよ」と言ってもらえて、「そんなこと無駄だ」と言わないでもらえて。

「こんな社会にして申し訳なく思う」という意見を聞く度、「だったら何かすればいいのに」と思ってしまう。「次の世代」が欲しいのは謝罪ではなく協力だ。

大人の世界は厳しいと言うけれど、それでもサポートしてくれる大人がいることを小学生の私は知った。もう「大人」と呼ばれる年齢になった今、あの時会った大人たちのことを思い出す。私もそんな大人でいたいと思う。

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