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バズ・ライトイヤーと父と私

 『バズ・ライトイヤー』を観に行った。最高でした。『トイ・ストーリー』シリーズはディズニー、ピクサー作品の中でも渋いストーリーが多いように思うが、『バズ・ライトイヤー』も20を過ぎた人に刺さりそうだった。
というか、今の私に断然刺さった。これは『バズ・ライトイヤー』評ではなく、映画を観て思い出した私の話だ。先に、素晴らしいフェミニズム映画だったことは言っておきたい。ディズニーは時代をいつも映している気がする(それゆえ後の時代に批判されるけど)。

 「バズ誕生のストーリー」ということで、任務を任されるも失敗し、惑星から出られなくなってしまうバズの奮闘が主に描かれる。バズは宇宙船(で合っているのだろうか?)により飛行し脱出を試みるも、上手くいかない。しかも、バズにとっては4分の飛行でも、戻った惑星では4年間時間が進んでしまっているのだ。当然、バズが失敗して帰還するたび、周りの人間だけ歳を取っていき、バズは若いまま。バズの盟友アリーシャも、先に老い、だんだん二人の時空はずれていく(ちなみにアリーシャは黒人女性であり、アジア系の女性と結婚する。当たり前に描かれている)。それでも、いやそれゆえ諦めないバズ。観ている間、そこここで泣いた。

諦めないその姿に……..ではない。むしろ、そこが問題だからだ。

バズは「仲間のため」を口癖になんでも一人でやろうとする。人の話なんて聞いていやしない。ここ数年で増々言われるようになってきた、「男性は一人で責任を背負い込むようプレッシャーを受けがち」という問題をがっつり中心に置いた映画だった。バズは、独善的な人というわけではない。相手のジェンダーや人種を理由に言うことを聞かないなんてことはしないし、常に尊重している。しかし、自分よりできない奴は邪魔だから相手にせず、「俺がやる!俺に責任がある!」状態だ。
 この姿が、私の父親にそっくりなのだ。そして、父に似ている自分に似ている。父と自分を投影しながら観ていた。
父を見ていて何度、「あんたのその『ひとりでできるもん』がいかに周囲と自分を追い込んでいるか気がつけええええええええ、このやろおおおおお」と思ったことか。これは、「人に迷惑をかけない」ようでいて、その実自分本位なのだ。

 私は父が背負いたがる理由が分からず、よく泣いていた。ただ、ジェンダーについて考えるようになってから、これは父が男性であることと社会的なプレッシャーと繋がっているのではないかと分かるようになった。多分、ここで苦しんでいるのは父と自分だけではないはずだ。『バズ・ライトイヤー』がこのテーマを取り上げることからして、最近、「男性性」と「色々背負い込み問題」が語られるようになってきたのと無関係ではないはず。

 バズは、そんな状況から次第に抜け出していく。何度目かの失敗ののち、バズは惑星がロボットたちに支配され、攻撃を受けていることを知る。ロボットに連れていかれそうになるバズを助けてくれたのは、アリーシャの孫イジー。彼女と、他に戦闘経験のない「素人」2人。やっぱり「この人たちを守らなければ!」と暴走するバズ。違う!そうじゃない、バズ!しかし、人間そうそう変わらないよね…..。それでもイジーが「助けてほしいんじゃない。一緒に戦ってほしいの」(いい台詞だ)と働きかけるのだ。この台詞といい、バズが訓練生時代の自分の失敗を吐露する場面といい、閉じこもっていたバズが少しずつ開けていくところが好きだ。
 だいたいの問題は、「独りきり」になることから起こる気がする。一人でいるのが悪いのではない。「一人」と「独り」は違うのだと最近思うようになった。一人の世界に閉じこもって、「自分しか頼れない」と追い詰めはじめると、危険信号だ。恋愛関係や家族関係も「この人しか私のことを分かってくれない(あるいは私しか分かってあげられない)」と思い始めると同じことが起こるように思う。世界が閉じて、自分の中だけで完結してしまうと、それしか見えなくなってしまう。だからバズのように、周りの人が助けようとしても気が付けない(アリーシャは何度もバズに冷静になれと訴えかけているのだが、聞かないのだ)。

 だから、いわゆる「悪役」は、この映画では「自分自身」だった。『トイ・ストーリー』では、『スター・ウォーズ』をパロディに「悪の帝王ザーグ」がバズ・ライトイヤーに対し「私がお前の父親だ」と言う。そのシーンをまたパロディにしながら、今回バズが向き合うのは、イジーたちと出会わなかった「バズ自身」。『カールじいさんの空飛ぶ家』に出てきた悪役のように、一人引きこもり憎悪だけがエンジンとなってしまったバズと、バズは向き合う。この展開に感動した。
 父だの母だの、「血のつながり」をもちだすことはとてもずるい、とずっと思っていた。「あなたには誰それの血が…….」と言われても、その人にはどうすることもできないからだ。でも、「自分自身」なら呪いを解くことができる。親や親族との「血のつながり」を持ちだされ苦しむ人に、勇気を与える展開だと思った。「血のつながりのあるなしなんて関係ないんだ!」と『バズ・ライトイヤー』は宣言している。

 最近、「父ならきっとこういうだろう」と考え、ひとりで悩んでいたことがあった。紆余曲折した結果分かったのは、父は別にそんなこと思っていないということだった。過去に父に言われて傷ついたことが私の中でどんどん大きくなって、自分で自分を縛っていたのだと分かった。私のジェンダー、育った環境、選択など諸々が複雑に絡み合っているので、自分だけの責任ではないと思う。でも、自分で自分にかけている呪いもあるのだと思った。

 「全てを一人で背負う」という、「自分が自分が」というプレッシャーから降りる。できないこともできることもバラバラな人たちが、ケンカしながらなんとか折り合いをつけていく。黒人、アジア系、女性、と周辺に置かれてきた立場の人が当たり前にちゃんと「いる」ことを描く。『バズ・ライトイヤー』はフェミニズム映画としてとても良いと思った。映画を観ていると、自分の人生や考えてきたことをどうしても考える。「個人的なことは政治的なこと」「表象と現実は繋がっている」と言うけれど、本当にそうだなとしみじみ思った。過去の自分を振り返ると、その、ひとりで背負っているという思い込みを一旦降ろしなさいよ、と思うのだ。それが難しいことは十分分かっているけれど。20数年かかって、ようやく脱出できているところだ。バズもそうだといい。


 

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