明日300000000年振りに3分間スピーチをする

明日、数年ぶりに3分間スピーチなるものをするので、スピーチをする目的について考えた。以下、その経緯と中身。

(10/22アホみたいな追記をしました)

発端は昨日も言った今受けているプログラミング言語研修の講師というのが結構愉快なおじさまだったということなんですよね。具体的には、我々にとっての初日(行ってから知ったが自分達は一部の行程をすっ飛ばして参加している組らしい)に「じゃあ人数も揃ったし明日からやろうか。3分間スピーチ」とか言い出した。プログラミング言語研修なのに。

3分間スピーチ。

聞いた瞬間は、なんか学校とかでやるイメージがあるな、と思ったんですよ。言うてやったこと……あったか? なかった気もしなくもない。それかロクに聞いてもらえなかったから記憶から抹殺しているタイプか? わからんけど、ご覧の通り私はお喋り大好きマンなので、ほーんやったるかと思った。割とまわりは「え〜」とか言っていたがなんだかんだ本気度がないタイプの「え〜」だったのでまあやることになった。

「初回はそうだな、大学で研究してたことをみんなにわかりやすく発表して。3分、いや9分でスライド使って発表、そのあと質疑応答ね」

いや9分間スピーチやんけ。

本題。

私は教育学部で特別支援教育を専攻していた。卒論は色々あって戦争神経症という、一見障害児とは関係のなさそうなところに着地したのだが、まあ在学中はおもに知的障害だとかその周辺の諸々をいっぱい見聞きして考えてなんやかんや捏ねて過ごしていた。
ので、今回のパワポは、戦争神経症もちらっとは触れるけど障害のほうに重きを置くことにした。取り扱いラインナップは知的障害、ダウン症、学習障害、自閉スペクトラム、二次障害である。

今思ったけどnote書かないの? って言ってたあの子が見てたら一発でバレるなこれ、ちょっと怖くなってきた。いや言うてそんな暇じゃなかろ。

小説を書く時メインテーマを決めるように、多分発表というものも「これだけは伝えたい」ということを考えてスライドを作るべきなんじゃないだろうか。いや、言うてそんな真面目にスライド作ったことないんだけど、なんか他の発表がみんなお上手だったので対抗心を燃やしてまして。
なので考えた。自分が大学で学んだことを説明するにあたって何を主題にすべきだろう。
障害児教育というテーマを通して、論文を読んで、実際に障害を持つ子ども達と接して、障害を持たない子ども達のクラスにも関わって、ついでにその後なんやかや介護とかでいろいろな難しさを持って生きる人々を見てきた自分が、そういうのを専門にやってこなかった人々に何を伝えたいのだろう。

考えながら講座を受けている中で、たまたまフォロワーからのリツイートでこの記事が流れてきた。

第一の感想はこれ。

第二の感想。

日給50円のダウン症の成人男性。

ぶっちゃけ珍しくはないのだ。
学生時代、初めて知った時はそれが衝撃だった。
だってちゃんと仕事してるんだぜ。8時間労働ではないが普通に最低賃金もらって然るべきではないか。最低賃金×実働時間くらいもろてるべきやんけ。単純労働って言うけどそれなかったら世の中困るわけじゃん。
でも日給50円なんだよな。
障害を持っているから。
いろいろなケアが可能な作業所じゃないと働けないから。仕事の単価が安いから。障害を持っている人のいる作業所、というだけで仕事を回してもらいにくいから。

なんか。
学生時代これを知った当時も普通に衝撃を受けたが、久々に、しかもだいぶ身近な感じで(Twitterという普段いるフィールドで)それを改めて見た時にやっぱり思った。
それ、ダメじゃんね。と。

職業に貴賎なし。労働は労働である。労働者である以上、その仕事をすることでどこかの誰かが何かを得ている以上、そこには適切な報酬が発生すべきではないか。サビ残、やりがい搾取、教職員の超過労働時間のエグさと並んで、これもどうにかされないといけない事実なのでは? 間違いない。

ところで、なぜこんなことになるのだろう。普通に考えてちゃんと働いているのに日給50円の成人男性(成人女性でも成人性別不詳でもいいが)って聞いたらめちゃめちゃびっくりしないだろうか。例えば自分の友達が「私日給50円なんだよね」って言ってたら「お前そんな会社すぐ辞めろ」って言うだろう。「今月残業時間50時間超えたのに残業代払われてないんだよね」ってのと同じくらい激ヤバだと思う。
なのに、なぜ、障害を持っているとそれが普通になってしまうのか。

まあシンプルに色眼鏡ってやつが関わってきているのよな。いや、オンリーではないけどさ。

障害を持っているなら仕事は上手くできないだろう。
障害を持っているなら仕事は覚えられないだろう。
障害を持っているならこちらの言っていることもわからないだろう。
暴れるかもしれない、何を考えているかわからないし、怪我をさせたらモンスターペアレントみたいなのが出てくるかもだし、何をしたら人権侵害になるかもわからないし、仕事のクオリティの保証もされてなさそうだしエトセトラエトセトラ、そういう思い込みの数々。
まあ、あるやろなと思う。

あの、本来自分はこういう思い込みを言語化して提示されるのが死ぬほど苦手で、特に教育学部の授業でお歴々が「あなた方に潜む差別意識」として「あなた方もこう思っているでしょう?」ってやってくるのが大の嫌いの長久命の長介で、この思い込みのところ書くのウワ〜嫌やなこれと思ったんで読み飛ばしていいからね。

戻る。

私はたまたま小学校低学年の段階で下の学年に(おそらく)自閉をともなった知的障害を持っている子がいたり、イベントにだけ来る(おそらく)知的障害を持っている女の子がいたり、近所にろう学校があったり、あと勉強したり、なんやかんやあって知る機会があったから、そうではないと知っているだけで。
多くの人々にとって障害者というのは身近ではない。
昔、母によく言われた。「ああいう子のそばに近寄っちゃダメ」とか「明らかにどこかおかしい人に近寄っちゃダメ」とか(まあ後者は大都会特有のアレでもある、某大きい駅で無差別殺人が起きたのはそんなに昔のことではないし、叔母の教え子がそれで殺されたりもしているし)。
無知ゆえの色眼鏡こそが、障害を持っている人々の低賃金労働を許してしまっている要因の一つではないだろうか。「こそが」は言い過ぎにせよ、そこそこ重大なファクターの一つではあろう。

例えば障害を持つ姪をきっかけに障害者雇用に力を入れるようになったある会社の社長のように。
あるいは障害を持つきょうだいがいるからと特別支援学校の教師になろうと志した、私の大学時代の同級生のように。

具体的な姿をエピソードとして知ることで、何かのきっかけになりはしないか。
全てがすぐ変わるとは思わないけれど、「あ、知的障害ってそういう感じなんだ」と心の隅にでも転がしておいてもらうだけでも、将来その人が何かをする時に、ちょびっとだけ、「あの時あいつがああ言ってたし前向きに考えようかな」と思ってくれる可能性があるんじゃないか。バタフライエフェクト。ハチドリのひとしずく。
もしかしたら、自分の3*2分間スピーチは、教育も障害も専攻していないこの研修を受けている他の人々に対して、そんなほんの少しを差し出すことになるんじゃないだろうか。

着地点を見失いつつあるうえにこれ絶対勢いで載せないと抹殺するなと思ったのでざっくりまとめるね。
要するに「あなたの多少知る人の知り合い」として障害を持つ人を提示することで、聞き手の視野をちょびっっっっっっとだけ広げたいな、て思ったんだよな。言うてそんな難しいこと言えないし、ぶっちゃけ調べれば調べるほど、接すれば接するほど、こちらの出す結論はあやふやな「一概には言えない」になってしまう世界だけど。
多分それは「普通」って思っている人の世界も同じなんよな、って。
そういう話を明日できたらいいな、って思う。思った。

多分それは回り回ってきっと、私やあなたが生きやすい世界にも通じているんだと思うんだよな。

おわり。


追記:という話を全力でかましたら質疑応答含めて45分喋ってしまった(反省)(いやそんなことある?)(3*2*5)分間スピーチじゃん)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?