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生と死

14年一緒にいた犬が2020.4.6の朝方、亡くなってしまった。

冷たくなってしまったぴーちゃんは、ただいつものように眠っているように見える。なのに動かない。

毛は相変わらずフワフワだし、耳は硬直してなくて、いつものようにちょっとひんやりして柔らかい。だけど動かない。

こんなに悲しいことってあるのかな、ってくらい、わたしは泣いた。

 

 

子どもにとって、初めての身近な生き物の死

長女(9)、長男(5)、次男(3)にとっては、初めての身近な生き物の"死"だ。

次男はまだ幼すぎて、死がなにかを理解出来ていないらしい。それでも動かなくなったぴーをたまによしよししている。

長男にとってもまだ死は少し遠い存在で、「もう動かなくなってしまった」という事を理解したあと、ひととおり泣いてあとは普段通り過ごしている。

余談だが、悲しみを表現するツールとしてHIKAKINBOXを使ったのはめっちゃ笑った。

https://twitter.com/haruchama/status/1246993382984929280?s=21

そして、長女。一昨年祖父が亡くなった時、火葬の後に焼かれた骨を見て「骨が骨の本と同じ形をしている!!!」とワクワクしながら納骨したちょっとクレイジーな彼女はどんな風に感じるのかな?と思ったら、思った以上に犬の死にショックを受け、泣いた。

1年生後半から不登校で家にいる時間の多い娘にとってぴーちゃんは、いつの間にか「何も言わずに傍にいてくれる、優しき家族」となっていたようだった。

おそらくそれはぴーにとっても同じで、晩年一番長い時間を共にした人間で、しかも娘が赤ちゃんの頃から成長を見守っていた子供(なんならちょっと自分の子ども、みたいに思っていた部分もあると思う)。

そんな娘に対してはぴーも思うところがあったようで、退院してきた日と亡くなる前日は娘からご飯をもらって、食べていた。(わたしや夫じゃダメだった)

理由はぴーにしかわからないけど、きっと娘に対して「元気だよ、心配しないで」ってアピールをしていたんじゃないのかな、とぼんやり思う。

娘にとっては、逆にそれがとてもショックだったようで「そんなアピールいらなかった!もっと一緒にいたかった!」と泣いた。

 

生きること、死ぬこと

わたしは出産する度に"生と死"はものすごく近くてものすごくリアルなものだと感じていた。

陣痛で朦朧とする意識の中、新しい命が誕生するあの瞬間、わたしは確実に"生と死"の狭間にいる。

上手く言えないけれど、「生きること」も「死にゆくこと」も本質的には同じことなんじゃないかな、と3回の出産を通して思っている。

 

最初はわたしとぴーちゃんふたりきりだった。

だけど、そこに夫が加わって、長女が加わって、長男次男も加わって……。

ぴーが亡くなって失ったものはとてつもなく大きいけど、わたしとぴーが14年一緒にいる間にわたし達にとって大切なものはたくさん増えた。

そして、ぴーを大切に思う人もたくさん増えた。

命は巡る。記憶とともに。

 

 

ペットを飼うことを「命の勉強」なんて思わない。

わたしはいつまでもぴーと一緒にいたかったし、子どもにとっていい経験になったね、みたいな風潮はクソ喰らえだ。ぜったいわたしには言わないでね!!

ただわたしはずっとぴーと一緒にいたかった。生きたかった。

ぴーちゃんだいすきだよ。天国で見守っててね、なんて綺麗事はまだ言えない。

横で呼吸をしていない冷たいぴーに、明日の朝また普通に起きてしっぽをふってくれる事を期待してる自分がいる。

 

ぴーちゃん、起きて。おねがいだから。

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