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遊びの大きさについて / 側溝に流れる水と、川を流れる水

小雨が降っていた日に散歩をしていた時、側溝を流れる緩やかな水の流れに目がいった。
水の流れというのはどうも魅力的で、ボーッと眺めたくなってくる。
この無心に見れてしまう動きというのは色々あるが、その中でも水というのは特別強いように思う。
川とか最高だ。
こういう見惚れることのできる動きというのはなんなのだろうか?
前々から抱えている疑問であり、そういうこともあって、側溝の流れに食いついてしまった。

眺めていると、ふと近くにあった石ころが目に入った。
その石ころを側溝の中に投げ込んでみた。
そうすると、石ころに水の流れが切られたように流れが分かれ、浮き出てきた。
面白い。
ひょいひょいと、いろんな石ころを投げ入れてみる。
石ころの形、大きさ、場所によって、側溝を流れる水は形を変えていった。
まるで石ころで水をコントロールして絵を描いているようような、いや自分が巨大になって川を作っている感覚だろうか。
よくわからないが、とにかく妙に嬉しかった。

というのも、水というのは魅力的だが、どうにも扱いづらい、戯れづらいのだ。
液体だから掴むこともできず、器がなければ流れていく。
コントロールできぬ存在。まさに自然。
それだから水というのは魅力的なのかもしれない。
そんな普段は眺めることしかできない水と、私は石ころを使うことで戯れることができたのだ。
いや、重要なのは石ころではない、側溝の方だ。
この遊びは側溝があったから生まれた遊びなのだ。
それはどういうことなのか。

側溝を「小さな川」として捉えてみる。
川というのは人に対して巨大で、水着といった水に濡れても大丈夫なのようにしない限りは眺めることしかできず。
また、川遊びといってもバシャバシャと水を飛ばしたり、泳いだり。
それは「水を遊ぶ」というより、「水に遊ばれることを遊ぶ」といった、受動的な遊びになりがちだ。
そんな川をぐっと小さくしたのが側溝だとすると、逆に川のように中に入って浴びるといった全身を使った受動的な遊びはできなくなったが、小さくなったおかげで今度は能動的な遊びが生まれやすくなったとも言えるだろう。

そう考えた時、遊びにおいて大きさとは、かなり遊戯構造に大きく影響を及ぼすということを改めて痛感した。
大きい遊びは能動的な遊びには向かず、受動的な遊びと相性がいい。
逆に小さい遊びというのは、受動的な遊びには向かない…とは言えないのではないか?
川の流れ、も側溝の流れ、も受動的には楽しめた。
向かないというより、大きい遊びより力は劣る。
大きい受動的な遊びは、環境のように体全身で受け止めることができる、その違いだろう。
いわゆる特徴の違いだから、向かないとまでは言えないのではないかと思う。
これは今思いついたまま書いたことだから、本当にそうなのか疑問だが、とりあえずそういうことにしておこう。
でもって、小さい遊びは能動的な遊びに向いている。
これはそのままで大丈夫だろう。

ここで思うのが、遊びというのはどちらかというと「小さい」という方が重要なのではないかということ。
それは小さい遊びの方が能動的な遊びができるからというより、もっと遊びそのもの魅力として考えると、言ってしまえば「遊びは小さくすること」ではないのかと思ったからだ。
「能動的だから遊び」というより、「小さいから遊び」の方が個人的にはしっくりくるのだ。
もっと言ってしまうと「遊び作りとは小さくすること」なのかもしれない。
そういう意味で、遊びの大きさというのはあんまり考えられてきてないと思うが、遊びにおいてとても重要な要素なのではないか、ということだ。

この遊びの大きさについて、色々展開させていく。
例えば「盆栽」は大きい存在を小さくした遊びと言えるだろう。
私は盆栽のことについて無知であるが、これは側溝は小さくした川の遊戯構造とかなり近いように思う。
ここで面白いのが、盆栽は小さくはなったものの、存在感自体は大きいままなのだ。
見た目と中身のギャップが盆栽の魅力であり、また「手入れ」という形で、能動的に戯れることも可能となったとも言えるだろう。
となると、ミニチュアの魅力というのも、似たような論理で話せるように思う。

またこれはコンピューターゲームにも言えることで、ゲームの内容自体は恐ろしいほど複雑かつ、膨大であるが、実際にそれが展開されるのは小さなゲーム画面だ。
そして遊びては、その小さなゲーム画面をみて、小さなゲームコントローラーで、小さな動き(ボタンを押すとか、スティックを倒すとか)で戯れる。
逆に言えば、小さな動きで大きな世界を戯れているわけだ。
この公式は遊び作りにおいて、非常に大切なように思う。

まだまだ遊びの大きさについて考えられることがあると思うが、とりあえず今回はこの辺にしておく。
この遊びの大きさは当たり前のことであり、当たり前のことが故に意識されていない部分だと思う。
この気づきが今後の遊び研究に大いにつながっていくことを期待している。


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