誰に向けてでもなく書くPityman「みどりの山」観劇のあとの走り書き



近未来、代理母はビジネスもしくは社会サービスになり得るのかなどをしみじみ考えてしまった。

個人の権利を尊重する時代、愛とはなにかは刻々と変化していて、正解はなくて、倫理にも社会性にも実は正解はなくて、「愛あふれる家庭」とか「愛する家族」は状態ではなく目指すもの、夢、になっていったりする(もしくはもうなってるのかな)


社会的に、男性が女性を頼りきれない理由、女性が男性を信じきれない理由、そこに「妊娠・出産」が含まれているのなら、
私たちが等しく満たされて、満たされあって、幸せになるために本当に必要なのは

ひねり出したお金でもひねり出した愛でもなく「子どもはお母さんから産まれてくるもの」という常識は常識なのか考えることなのでは、とか。考えてしまう。

つまるところ「私がこの子を守らなければ」その感情が愛情になって、そんで愛情が人を親にするのだと思う。






ところで、、

保育園で働いていると【守る】ことと向かい合いざるをえない。(目も手も離したら彼らはすぐに死ににいくと確信せざるをえない感じ)(特に0〜2歳にかけて)詳しくは割愛するけどほんっっっっっっぅとうに予期せぬ行動するから何度も理性が飛びそうになる。本気で「コラ!!!」て怒りそうになるし、感情的になる。

8時間必死で守って帰る頃にはボロボロベトベトな23歳が出来上がっているわけだけど、あんなに振り回された子どもたちのことが愛しくて隙あらば構いたくてしょうがないのだ。

23歳、子どもを産んだことないけれど、ああきっとこういうことなんだと保育補助をしていて思う。本業保育士さんや実際の育児とは比にならないけれど。


子どもを愛しいと思うこと。

死から子どもを守りたい、劣悪さから子どもを救いたいと強く思うこと。

それは、その子どもを産んだ「母」にしか許されないとは思わない。

育てた「母」が全て背負うべきだとも思わない。




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