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2つの10.9

プロレスファンで10.9と言えば、新日本とUWFインターの対抗戦だろう。史上最大の対抗戦と言われ、メインで武藤敬司が髙田延彦に完勝したあの大会である。1995年のことであった。それをさかのぼること9年前、1986年にももう一つの10.9があった。前田日明対ドン・ナカヤ・ニールセンが行われ、前田が新格闘王となった日である。どちらの10.9もUWFが深く関わる。だが意味合いは大きく異なる。一方はUWF伝説の始まりを告げる日となり、一方は終焉をもたらすものとなった。

86年から見てみよう。前年に第1次UWFは崩壊。前田、高田、山崎らは新日本に戻り、格闘技色の強いプロレスを展開していた。当時27歳の前田はまさに昇り竜。新日トップだった猪木との対戦は必然と思われたが、一騎打ちは実現せず。体力の衰えを隠せない猪木が逃げているようにファンの目には映った。6月にはアンドレにセメントをしかけられるも、返り討ちに。そのような中迎えた10.9の前田対ニールセンは異種格闘技戦史上最高と言われるほどの試合になった。同日行われた猪木対レオン・スピンクスが大凡戦だったこともあり、前田は戦わずして猪木越えを達成した。翌87年も前田の輝きは色褪せない。しかし11月に長州への顔面襲撃事件を起こし、結果的に新日を解雇させられる。そして立ち上げたのが88年の第2次UWF。同団体はファンの熱烈な支持を受け、UWFは一大ムーブメントとなる。前田は天下を取った。そのきっかけは紛れもなく86年の10.9であった。

第2次UWFは前田、高田、山崎がトップ3であった。だが3人は同列ではなく、トップは前田、ナンバー2が高田であった。メインも前田が多く、団体のイメージも前田の色が強かった。だが第1次UWF、新日業務提携時代を含め前田に勝てなかった高田が、前田の実力に追いついていく。直接対決で2勝を挙げるまでになった。高田は前田に近づき、UWFのもう一つの顔となった。

隆盛を極めた第2次UWFであったが、あっけなく90年に崩壊。3団体に分裂する。その1つがUWFインターナショナルであった。高田が絶対的エースとなった。その姿は第2次UWFの前田というよりは、新日におけるアントニオ猪木であった。高田は北尾を破り、ベイダーなど強豪を次々と倒す。3団体の中で唯一UWFの名を残すUインターは絶頂を迎える。そして95年の10.9。高田は武藤に完敗した。UWFと対極にある足四の字固めでギブアップ。2ヶ月後の再戦では勝ったものの、初戦のインパクトはあまりにも強すぎた。Uインターは96年に解散した。UWFの名前はプロレス団体から消えた。95年10.9での敗北が大きなきっかけと言って間違いない。

86年の10.9で始まったUWFが、95年の10.9で終焉。この間、昭和が平成になり、プロレスの大会場は1万人クラスの両国国技館から東京ドームとなった。東京ドームができたのは88年。86年の10.9には姿は無く、95年の10.9はもちろんここが使われた。前田が追いかけた猪木は89年に政界進出しプロレスの第一線から退いた。世の中ではバブル経済が崩壊し、Jリーグの開幕、阪神・淡路大震災、オウム真理教の一連の事件などがこの間となる。世の中もプロレス界も大きく動く中、2つの10.9とUWFがあった。

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