模範解答のないこの世界で
初めてPCから更新した。
何だか変な感じ。
特に書かなきゃいけないこともないし、勿論書かなきゃいけないことがあっても、それを伝えるだけの技量もない。
そういう意味では本当に授業に飽きた子どもがノートの端に書く落書きのような感覚。
今日、さっきまでだらだらと新年に買う本を、某書店のサイトで探していた。
「この本が欲しい」というより、書棚を見ていって何となく気になった本を買っていくタイプの人間なので、ジャンルだけ決めてだらだら表示されていく本たちを眺めて、頭の中で選別していく。
驚いた。
こんなに「解答」を提示する本が世の中に溢れていることに。
それだけ、「解答」を求める読者がいるから、書き手もその題材をチョイスして、出版社もコストをかけて出版するのだろう。(でないと採算がとれない。)
特にこのコロナ禍において、この傾向が顕著になったのではないか。
(もちろんあくまで感覚でしかないが。)
しかしながら、世界に「模範解答」は転がっているのだろうか。
1+1=□ □に入る数のような、模範解答が。
「最適解」「最善策」はあっても「模範解答」はあるのだろうか。
ふと考える。
「模範解答」があるとすれば、その「解答」を「模範」と判定する側がいることになる。
「この進学は模範解答ではない」「この就職は模範的ではない」「この結婚は模範的ではない」「この生き方は正解でない」……。
自分の選択を監視されることにもなりかねない危険をはらんでいるような気がしたりしなかったりする。
そういえば、太宰治の『人間失格』で忘れられないシーンはいくつもあるが、その最たるものとして、「それは世間が許さない」というセリフに対して、主人公が「許さないのはあなたでしょう?」と反論するシーンだ。
(残念ながら、心の中で思うだけなのだが。)
模範解答がある世界というのは、まさにこのことなのではなかろうか。
世間という匿名の集団が正解不正解を決める世の中。
そんなに世間が許したというお墨付きのようなものが欲しいのだろうか。
しかもその書物に書いてある模範解答はあくまで広い広い世界の中の一人である、筆者の感覚で決められる。
筆者のお墨付きがあれば満足なのだろうか。
答えが「これですよ」と提示されれば安心なのだろうか。
それが自分の人生の方向性と違っていても。
誰かに自分の思考を、ひいては生殺与奪権を委ねてしまうのは恐ろしいことであり、何となく、潮流がその方向に向いていそうで空恐ろしくなった。
何だろうね、社会は個人主義的方向に加速している気もするのだけど。
気のせいであることを願うし、1000文字書いて疲れたので、この辺でやめておこう。
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