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マスクで、馬鹿になる。

通勤の往復でマスクをしなくなって、気づいたことがある。

この3年間、自分がどれだけ、“酸欠状態”だったのかということ。
特に、徒歩通勤だったのが電車通勤になり、1日のマスク着用時間が大幅に増えた去年は、仕事中に頭を使って考えようとすると、度々眩暈めまいが起きるようになった。
シェディングの影響か、それとも、単に疲れているのか…?
そう考えていたけれど、今思えば、あれってマスクによる酸欠状態からきていたものだと思う。

巷では、「マスクは奴隷の証だ」とか、体に害だとか、色んな情報や意見があったけれど、私はマスク云々に関してはそこまで興味がないというか、まぁどっちでもいいという感覚が強かった。
それに、言うほどそんなに害があるものなのかもよく分からなかったし、着用がお願いされている場所では、人目を気にしてw、きちんとマスクを付けていた。

だけど、脳をフル回転させたい時に急激に起きてくる眩暈と、それに伴って思考力が一気に低下するような、意識が遠のいていくようなあの妙な感覚が、実はマスクによる弊害だったんだと気づいたら、ぞっとした。

職場ではまだマスク必須なので、仕事中は仕方なく付けているけれど、だからこそ余計に、付けている時といない時の脳みその働き方の違いを明確に感じるようになったし、マスクの着用時間が減ったことで、眩暈がすることもなくなった。
しかも、これまで欠乏していた分を補うかのように、体がめいっぱいに酸素を欲しがっているのがよく分かる。仕事でのマスクを外した後なんかは、とにかく深呼吸が酷い。w

大人でこれだよ・・・?
まだ脳が発達途中の子どもへの影響とか、一体どれほどのものなんだろう…

マスク論争ってまだあちこちであるけれど、花粉症や持病やらの何かしらの事情がある以外は、他人への忖度マスクなんて、マジでしている場合じゃない。
マスクが感染を防ぐだの防がないだの、それ以上に、この慢性的な酸欠状態で起きてくるであろう弊害の方が、よっぽどリスキーだ。

監視社会での顔認証の為にマスクオフが促されているんだ、って予想があるのも知っているけれど、それでも私は、外す方を選ぶ。
それよりも、目下酸欠状態で思考力が落ちて判断力を鈍らせていく方が、私は怖い。

私たち一般市民にとっては、知識だのエビデンスだの、そういうものばっかりをかき集めて何が正解かって議論する以上に、こういう自分の感覚や体感を注視することがまず何よりも大事なことで、そこありきで情報を精査していくっていうベクトルが必要。

外側の情報や誰かの意見に振られて、あーでもない・こーでもない・何を信じたらいいのか分からない・・・じゃなくて、「私はこう。だから、こうする」っていう意識の置き方が、これからえげつないレベルで、重要度を増していく。

春分を迎え、遂に「激動」と言われる時代に、本格的に突入した。
自分の感覚を丁寧に拾い上げ、それを羅針盤にしてゆくことがことさら重要なフェーズに入ったと、言葉だけではなく、本当に本当に、肌で感じている。
何が分からなくとも、それさえあればいいんじゃないかとすら思える。

外側の誰も、“正解”を持っていない。
それはなんて、素晴らしいことなんだろう。

巷には、不吉な予想や兆候が溢れているけれど、私自身はこの激動の中を、楽しんで進んでいけそうな気がしている。(というか実際既にワクワクしている。笑)
それほどに、これまで自分の内側で整えてきたものがあるし、私はそれを、何よりも信頼している。

ひとりひとりが自分の内側にそういうものを持っていれば、きっと大丈夫。
共に激動の時代を、軽やかに楽しみながら、進んでいきましょう☆☆

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