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恩返し

東日本大震災の時、僕は中学生だった。
どこにでもいるような、サッカー部の中学生。
東京にいたので、被害は多少あったものの生活に関わるようなレベルではなかった。つまり大震災は、テレビの中の話である。

その時に、君にできることはいつも通りサッカーを頑張ることだと言われた。それを言ったのは顧問だったか、コーチだったか、親だったかは覚えていない。しかし、言われた事実はなぜだか覚えている。
それは、不思議な感覚があったからだと思う。
大震災があったから、寄附をしよう、自粛をしよう、電力使用を控えようというのであれば、理解しやすい。
大変なことがあったから、形はどうであれ助けに行こうというものだ。

ただ、「いつも通りサッカーを頑張る」というのは、それだけでは被災地の復興には関係しない。
その時は、そもそも個人にできることは多くないのだから、意識しすぎず自分のことに集中しろと言われているのだとなんとなく理解した気がする。


十数年経った今、中学生だった時の僕よりはこの言葉の解像度が上がって来たなと感じたので、noteに書いておく。

20代も後半になり、結婚したことがきっかけで家族親族と連絡を取ることが増えた。そして、自分の人生を振り返ることも多くなった。
なんとなく、自分の人生は自分で選択がきちんとできるようになった中高生くらいから始まったような気がしていた。実際、自己紹介をしろと言われると、10代後半から最近までのことを話していると思う。
しかし、家族親族と連絡を取ると、全くそうでなかったことに気が付く。

祖父母の口から出てくる孫としての自分の話は、幼い頃のことが中心であるし、実家にあるプリントアウトされた写真も、声変わり前のものが多い。
言葉にするのは簡単だけれど、そうやって聴覚視覚から情報が入ってくると、自分という存在が、無償の愛に包まれていたことを目の当たりにする。

親を肯定しろという主張ではないから、最近の毒親がどうとかという話題に触れるつもりは全くないけれど、一人暮らしをして年に数回だけ実家に帰るという生活をしていた頃とは親や祖父母への印象が変わった。
むしろ、今の自分とそう変わりない年齢で赤ちゃんを抱きかかえている親が、どんな目線で自分を見てくれていたかということに思いを馳せる。

そんな家族、特に祖父母に関しては、歳を経るごとに僕の進路や生活の具体的なものにはあまり興味がなく、今現在僕がどのような状態であるかを知りたがる。
例えば、元気なのか、ご飯を食べているか、頑張っているのか、どんなことを考えているのか、みたいなことである。
もちろん、大学まで出てある程度知っている企業に勤めているということを知っているから、肩書にそこまで不安感はないという背景もあるだろうけれど、普段する友達とする話とは少し種類が違う。

その姿は、まさに見守ってくれているという言葉が似あう。
僕になにかしてほしいことがあるというよりは、今はどんなことをしているのか、次はどんなことをするのか知りたいだけ。
そんな相手と話すと、相手の意見が跳ね返ってくることがないので、どこか照れくさいというかむずがゆいような気持ちになる。

普通、目上の人と前向きな話をするときには、なにか期待をされていて、それを頑張りや結果で返さなきゃという気持ちになることが多い。
ただ、今回のような家族と話した後だと、「ちゃんと主人公でいなきゃ」という気持ちになる。

僕の祖父母は、自分の話を聞いてほしいわけでもなければ、僕の友人の面白い話を聞きたい訳ではない。自分の孫が話してくれることに耳を傾けたいということがヒシヒシと伝わってくる。
だから、悩むことや大変なこともあるけれど、どんな道であれちゃんと主人公として前に向かって進んでいく姿を見せたい。

もちろん、なにか贈り物をあげたり、体験をプレゼントすることも恩返しだが、一番は前に向かって進んでいく姿を見せることが恩返しになるんだろうと思う。
僕を応援してくれている人の存在に甘えることなく、良い子ちゃんとして媚びるようなこともなく、勘違いせずに自分の足で自分が歩みたい方向に進んでいく。普通のことにみえて意外と難しい。
どこまで上手く言葉にできているか分からないけれど、そのことを僕はちゃんと主人公として前に向かって進んでいくという言葉で自分の中に落とし込んでいる。

東日本大震災の時の「いつも通りサッカーを頑張る」ということも、そういうことだったんだろうと思う。
周りの人の言うことや、今は世間が大変だという状況を言い訳にして目の前のことから逃げるのではなく、きちんと自分の人生を歩んでいけということが言いたかったのではないかと思っている。
ひいては、何かに夢中になっている中学生を誰かが見て元気づけられるかもしれない。でもそれは、自分に集中している人を外野から見た時に初めて生まれる感情である。
大袈裟にいえば、自分が一番になりたいというエゴの塊であるスポーツ選手が自分のために頑張れば頑張るほど、他者が勇気づけられる現象に近い。

中学生の時の解釈と、方向性は同じようなものだと思うけれど、なぜ今わざわざ「いつも通り」ということを言うのかという不思議な感覚は、今はあまりない。
SNSでは、自分が主人公のように振舞うと配慮が足りないという声が聞こえてきたり、逆に自分がやりたいことを社会貢献や他者貢献の大義名分に乗せて発信することもあったりする。
そんな世の中だからこそ、ちゃんと自分がやりたいからやりたいことをやると声を大にして言えること、そしてそれを見守ってくれる人がいることに感謝して、誇りをもって、顔を上げて、前に向かって進んでいきたいと思う。

その分、自分の周りの人を見守って応援したい。
優しくすることや許すことだけが見守るわけではなく、時には思ったことを口にすることも必要だと考えている。でもやはり愛を持って見守りたい。
自分の好きな人たちには、思いっきり主人公として自分の人生を喜んで、怒って、悲しんで、楽しんでほしいなと願っている。

上手くいくことばかりではないけれど、周りの人たちの想いも乗せて人生の波に乗っていく。
年齢を重ねていくことを楽しむのは、人生の波を乗りこなすうえでの第一歩目なんじゃないだろうか。

サポートしてもらたら、あとで恩返しに行きます。