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言語化の限界

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ウィトゲンシュタインによって書かれた有名な一節だ。しっかり理解するには難しすぎるので立ち入るのはやめておくが、「言語が持つ力」は、このように様々な哲学者や言語学者によって強調されてきた。

考えを言葉にするということは、思っているよりも遥かに難しい。というわけで、何でも言葉にすることが必ずしも良いことばかりではないはずなのだ。色々な場面で「言語化することの素晴らしさ」を謳った記事をよく見かける世の中になったが、その中で言語化することのデメリットについて何かが書かれていることは少ない。

言語化するという行為は、その事がらについて自分なりに「明確な」定義を行うということであると同時に、言語化されなかった部分が捨象されてしまうことを意味する。さらに、取り出された部分がそれ自体を再定義してしまうため、一旦言語化された考えは、必然的に以前と全く同じものではなくなってしまう。つまり、一度言葉にして取り出した時点でなんらかの部分が欠けてしまうということであり、思考を「完璧に」取り出すのは不可能であるということになる。

その理由は、自分の持っている言語能力が足りないからだとも限らない。言葉というものはある程度抽象化された概念なので、それを使う人によって微妙なニュアンスの違いが出てくる。また、同じ人が同じ言葉を使ったとしても、それらは使うシチュエーションによって刻一刻と変化していくものであるため、厳密には違いを含んでいる。

例えば、一口に「幸せ」と言っても、それがどういう幸せなのか、何故そうなのか、その度合いはどの程度なのかなどなど、使う人によって込められている意味は様々であり、完全に一致することはない。言葉にしなきゃ伝わらない!とはよくいうけれど、実は「言葉にしちゃったら伝わらない!」ことも同じくらいあるのかもしれない。

というわけで、全ての考えを言葉にしてはっきりさせるべきだ、という考えにはあまり同意できない。もちろん、相手に自分の意思を伝える必要がある場面では不可欠な行為だが、日々の暮らしの中で全部を言語化する必要は全くないと思う。むしろ、そのまま何となく放置しておいた方が良いこともあるのではないだろうか。

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