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あの日、僕は(三)

 大学のキャンパスは人もまばら。新学期が始まればお祭り騒ぎのようになることだろうが、今は鳴りを潜めている。静かな敷地内をてくてくと歩いていく。
 勇は大学に来ていた。新歓に向けての話し合いがあるためだった。去年の秋から冬へ移ろう頃、現三年生から二年生へと引き継ぎが行われた。サークルの幹部代と呼ばれる一年がスタートした。新三年生になれば、これからのサークルを支える新一年生を勧誘し、迎えないといけない。
 高校までと違い、大学はあまりにスケールが大きく、誰か一人の死でその流れが滞らないことを知った。達也の死はサークル内に大きな衝撃を与えたけれど、それでも新歓期に向けて勇たちは動こうとしている。申し訳ないと思う反面、ではどうしているのが正しいのか分からなかった。
 サークルの部室がある学生会館へと足を踏み入れる。ふと、見慣れた後ろ姿を見かけ、呼ばわった。
「亜衣ちゃん」
 ほかの大学生はいろいろだろうが、勇たちは男女問わずファーストネームで呼び合うことがほとんどだった。
 声に反応して、若槻亜衣がゆっくりと振り返る。勇と目が合ってもにこりともしない、聡明さを窺わせる瞳。縁のない眼鏡の奥で柔らかく瞬いている。
 亜衣は整った顔立ちをしている。しかし、そのクールな性格から、異性から敬遠されてしまうことも多い。勇はいつも、もう少しだけでも愛想を好くすればいいのに、と心配していた。当人からしたら、余計なお世話だろうが。
「勇」
 亜衣も勇と同じ二年生。四月から三年生になる。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
 大学生の春休みは長い。会わない人にはとことん会わなくなる。
「うん、まあ」亜衣は気のない返事をよこす。「フィンランドに行っていたんだっけ? どうだった?」
「楽しかったよ。お酒もおいしかったし」
「それはなにより。無事に帰ってきてくれて――」
 よかった、と続けようとして、亜衣は口を噤んだ。脳裏に達也がよぎったのかもしれない。もう二度と返らない人が身近にいる。
 二人で所属しているサークルの部室まで歩いた。学生会館内はキャンパスの静けさがうそみたいに騒がしかった。みな、来る新学期に向けて、サークルごとに準備しているのだろう。
「驚いた」
 エレベーターに乗り込むと、亜衣が再び言葉を紡いだ。館内が騒がしいのに驚いたのではないだろう。
「俺も」
 だから、勇は同調した。
「私、人に見せられないくらい泣いちゃった」
 勇は頷く。感情をなかなか表に出さない亜衣が泣き崩れるほど、それはセンセーショナルな出来事だったのだ。
「どうしてなんだろう、って話してみたけど分からなかった」
「誰と話したの?」
「悠さんとか、小絵さんとか、風花さん」
「だろうと思った」エレベーターの箱から吐き出されると、亜衣は部室へは向かわず、そのフロアの奥まったところへ勇を誘った。
 日があまり差さない曲がり角の向こう。心なしか、亜衣と向かい合うことにどぎまぎする。ほら、いつもそれくらいしおらしくしていればいいのに。口に出して言わないけれど。
「どうしてこんなことが起こっちゃったんだろう」
「みんな、それを知りたいよ」
「……風花さんじゃないのかな」
 勇は返答をためらった。なぜ、ここで風花の名前が挙げられるのか。
「どういう意味?」
 勇が訊いても、亜衣は言ってしまったことを後悔したかのように眉を寄せ、顔を背けた。
「風花さんと達也さんの間になにかあったの?」
「勇」亜衣は唇の前に指を当てた。「無責任な噂を元にした推測だから、ほかの人には絶対に言わないでね」
 勇は真剣な眼差しで首を縦に振った。
 楽しそうなはしゃぎ声が遠くでしている。ずっと遠くで。形のよい唇が次にどのような言葉を紡いでいくのか、勇は注視した。
「達也さんは風花さんのことが――好き、だったんじゃないかな」
 達也と風花の仲睦まじい光景が思い浮かんだ。あながち、まったく無責任な話でもないと思う。ただ、それが達也の死に関わってくるかどうかは……。
「分かってる」亜衣は勇の考えを読んだかのように遮った。「私は、達也さんが風花さんのことを好きで、それで想いを伝えて、でも振られてしまったんじゃないかと思ったの」
 報われないと知った瞬間に死を選ぶほどに誰かを恋うことなんてあるのだろうか。あったとしても、達也が果たしてそうだったのか。
 もし、ほんとうだったとしたら、風花が背負うものは途方もなく重いだろうな、と勇は考えた。そして、この話はけっして外に出してはいけないな、とも、また。

 季節は春に入った。コートがなくても屋外で生活できるようになり、あちこちでは桜の花が咲き乱れている。
 強い風。通りを歩いていた風花は、春一番かな、と胸の内で確かめるように呟いた。
 今日も今日とて就職活動があり、選考に直結する説明会に参加し、エントリーシートが通過した人が次回の面接に呼ばれる運びとなった。だんだんと就活のシステムが分かってきたが、どの企業も会社への誠意を試すような真似をする。大人にならなければ。風花はここ最近、そんなことを思う。
 日が暮れかけていた。そろそろ家路につこうかと駅に向かいかけたところで、不意に誰かに肩を叩かれた。そっと振り向くと、よく見知った顔がそこにあった。きらきらと目を輝かせている。太陽みたいな少女――生田歩美だ。
「歩美ちゃん」
「ふうちゃん。ご無沙汰!」
 風花はおしなべて、ふうちゃんと呼ばれることが多い。
 歩美は風花と同学年で、先の秋までサークルの代表、幹事長を務めていた。明るく、前向きで、いかにもみんなのまとめ役といった存在だった。
「歩美ちゃんも、そこの説明会に来てたの?」
 歩美もスーツ姿だった。フットワークの軽さを表すかのようなパンツスーツ。一方、風花はシックなスカート。
「うん、そう。ちょっと興味あったから」
 偶然だね、と二人は手を取り合って喜んだ。就職活動中はそれまでいつも顔を合わせていた人たちと会えなくなってしまう。たまに知り合いの顔を見つけると安心感を覚える。
「歩美ちゃん、この後の予定ある?」風花は提案した。「もしよかったら、ごはん、どう?」
「行きたい!」
 積もる話もあるだろうしね。
 話はまとまった。二人は駅の方まで歩いていくと、駅前のおしゃれなイタリアンのお店に入った。
 夕飯どきには少しばかり早い。店内は空いていた。通りに面した明るい席へ案内される。
 おいしそうなメニューの品々に嬌声を上げ、ここのところの就活についてひとしきり話すと、ふいと沈黙が下りた。互いに、互いの胸の内を窺っているような間。
「あの……」
 二人の声が重なった。ふっと小さく笑うと、しかしすぐに真剣な表情に変わった。歩美は豊かな胸を張るようにして身を乗り出してくる。
「達也さんのこと、なんだけど」声を潜める。「ほんとに、残念だったね」
 残念でならない。悔やんでも悔やみきれない。
「うん……」
「私、茅穂のとき以来会っていなかったから、まさか、って思いだった」
「私も。告別式の日に小絵ちゃんとも話したんだけど、小絵ちゃんも私も茅穂で会ったのが最後だった、って」
 茅穂へ出向いたのは二月の終わり。冬の寒さは依然として去らず、そのくせ花粉症が存在感を強めていた頃。よく晴れていた。国内有数の中華街を練り歩き、いい思い出になった。まさか、達也との最後に過ごした時間となるとは思いもしないで――。
「詳しいことはなにも聞いてない?」
「うん、なんにも」
 実際のところ、どうなのだろう。遺書、とまではいかなくても、達也の決意を暗に示すようなものが見つかっていないのだろうか。
 遺族はサークルの代表に訃報を伝えてきたけれど、これが数か月前のことだったら、受け取っていたのは歩美だった。歩美ほど思い入れが強かったら、今回みたいな冷静な対応はできなかったかもしれない。風花はそう思うのだ。
「なにに悩んでいたんだろう」
 消え入りそうな声で呟く。いつも元気な歩美の俯きがちな顔は、あまり見たくない。
「就職、とか。たとえばだけど」
 それまで考えてもいなかったのに、ふと、風花の脳裏によぎった。就活をしているだけでも感じる、将来への期待と同時に抱く不安。
「就職――でも、達也さんは希望したところに就職できた、って話してたから」
「うん、私もそう記憶してる。やっぱり、違うことなのかな」
 そうなると、すぐに袋小路だ。真相にはどうがんばってもたどり着きそうにない。
 ぼんやりとした不安によって死を選んでしまった作家もいるくらいだ。死人はその死の真相を余すところなく語ることなんて絶対にない。
 達也の声が聞きたかった。抱えているものをすべて教えてほしい。話してほしい。もう二度と叶わない願いであればこそ、強く。
「ふうちゃん」歩美がまっすぐ視線を向けてきていた。重要な打ち明け話をするときみたいに、真摯な双眸に捉えられ、風花は身を固くした。「達也さんのこと、好きだった?」
 男勝りなさっぱりとした髪型をしている歩美は、ときに少年のような表情を浮かべる瞬間がある。風花は、彼女にはいつまでもこのままでいてほしい、そんな思いを抱いた。

 ベッドの上で単行本を読んでいた。でも、さっきからいろんな感情が目の前を通り過ぎて、まるで内容に集中できていない。頭に入ってくるのは上滑りした文字ばかり。舞台の情景も人物たちの表情も見えてこない。
 諦めて、本を閉じることにした。モスグリーンのカーテンの向こうは朝の気配。ふて寝を決め込むはずが、こういう日に限って目が醒めてしまうあたり、皮肉なものだ。
 来客を知らせるベルが鳴った。足音を立てまいと静かに玄関へ向かい、ドアアイからそっと覗き込んだ。彼もこちらの気配を感じようとしていたらしく、その顔が至近距離にあって悠は苦笑した。
「悠さん。ドアの近くまで来てますよね? 開けてください」
 勇が声を大にする。朝っぱらから、ご苦労なことだ。勇は埼玉に住んでいるというのに。後輩の殊勝な働きによって、悠はあっさり抵抗をやめた。ドアを開け放ち、勇を招いた。
「おはよう」
「おはようございます」
 ずいずいと入ってくる。悠は肩を竦めた。
「朝ごはんを食べに来たのかな?」
 悠は料理上手だ。いい主夫になれる、と専らの評価である。
「もう食べてきました」
「家、近くないよね。かなり早起きして来た?」
 勇は首を横に振る。「たまたま、この近くに住んでいる学部の友達の家に泊めてもらっていたので」
 たまたま、かね。
「悠さん」勇は表情を険しくする。「卒業式行かないつもりなんでしょ?」
 どうして分かった、と訊こうとしてやめ、代わりに「行かせるために来たのか」と返した。
「そうです」
 ほんとうによくできた後輩だと、悠はしみじみと実感した。普通、他人のためにそこまでできない。勇は人の懐へ躊躇せず飛び込んでいける性格で、それを理解しているつもりだったけれど、たまにこうしてそれを思い起こさせる。
「――達也が行けない卒業式に参加してもしょうがない」
「達也さんが行けないからこそ、悠さんは行くべきです」
 代わりにその光景を目に映してこいとか、そんな言葉は続けなかった。理屈ではなく、ただ、悠は行くべきだという思いに突き動かされて、勇はここまで来た。
「さあ、行きますよ」
 もちろん、誰も迎えに来なければ家にいるつもりだった。だけれど、そこまで頑として出ないつもりもなかった。悠は諦めたように笑い、「とりあえず、着替えさせてくれる?」と言った。

 誰かの視線を感じて、風花はパッと振り向いた。大勢の人で賑わう大学キャンパス、その賑わいの一隅から強い眼差しが注がれている気がした。しかし、そうと思った方には誰の影もない。
 気のせいだっただろうか。風花は首を傾げて、再び歩き始めた。
 春休み中でありながら、キャンパスにたくさんの人がいる理由は、今日、卒業式だからだ。そして、風花がここにいるのもまた、卒業式に出る先輩たちに会うためだった。お別れを告げるのと、女性陣の袴姿を見るのと。
 桜はまだ咲き出したばかりで、それでも春の訪れを実感するには十分だった。桜並木に挟まれた道をてくてくと歩く。
 卒業式が行われる講堂の近くで悠と勇を発見した。勇はラフな格好で悠になにか話しかけている。一方の悠はスーツ姿。
(あの隣に達也さんもいたのかもしれない)
 風花の胸の内に、自然とそんな考えが湧いた。
 近寄っていくと、向こうもこちらに気づいた。勇は大げさに手を振り、悠は照れ臭そうに笑った。
「お二人とも、こんなところでなにしてるんですか?」
「部室に行ったらほかのみなさんもいらっしゃるのに、悠さんが頑なに行こうとしないんですよ」
 サークルの四年生は式の前に部室に集まる約束をしている。
「それで、勇くんは悠さんがちゃんと式に出るか見張っているわけだ」
「まあ、そんなところです」
 悠はふてくされた顔を浮かべる。「さすがにここまで来たら出るよ」
 今日、もしかしたら悠が来ないかもしれないと風花は思っていた。だけど、勇が予想以上のお節介だった。彼がいたから、悠は今ここにいる。
「悠さん、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
 ――達也さんのこと、好きだった?
 どうして、このタイミングで思い出すのかしら。
 ――好きって、ただの好きじゃなく? 特別な意味?
 こくりと、歩美は頷いた。唇を真一文字に引き結んで。
 ちゃんと答えなければいけない、と風花は感じた。でも、どう答えたら正しいのかほんとに分からなかった。
 ――分かんない。
 分からないよ。きっと、いつまでも。
 桜、早く咲いて通りを埋め尽くして。内側にわだかまるもやもやしたものをすべて取り払ってくれるくらい、鮮やかであれ。

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